オーガスチンのまなざし 神のおとずれ 2021年2月号より

「コロナ禍の中で」

コロナ感染症は収束が見えず、不安は尽きません。この状況の中で、神様は私たちに何を語ってくださるのか、聴く日々を過ごしていました。そんな中、十一月二十九日の降臨節第一主日の説教を考えていた時です。福音書はマルコ伝十三章の「目を覚ましていなさい」がテーマです。いつイエス様が帰って来られてもいいように、準備していなさい、という勧めの言葉です。「またか」という思いでした。

実は、十一月八日の特定二十七もマタイ伝の同じ「目を覚ましていなさい」でした。マタイ伝の方は、この後、「十人のおとめ」、「タラントン」、「すべての民族を裁く」と続きます。要は、目を覚ましている、準備が出来ているというのは、自分の才能を神様のために使い、困っている人を助けること、とマタイは考えています。それではマルコは、と考えて、この「目を覚ましていなさい」が結論で、その後に、マタイのような具体的な指示がありません。そこで、もう一度、マルコ伝を読んでみました。イエス様の再臨の前に、戦争の騒ぎや地震、飢饉が起こり、クリスチャンの迫害、偽メシアや偽預言者が現れ、惑 わそうとするが気を付けていなさい、と勧められています。そして、そのまとめが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(十三:三十一)」でした。その後に、一つの譬えがあって、次に来るのが、この「目を覚ましていなさい」です。ですからマルコの考える目を覚ましていることとは、 天地は滅びるがイエス様は決して滅びない、このイエス様をしっかり信じていることだと納得しました。これが無くなったら大変だ、と心配しているほとんどのものは、滅びるもの、過ぎ去っていくもので、本当の安心を与えてくれるものではない。イエス様だけを信じていればいいんだ、と安心しました。

そして、もう一つ気づいたことは、滅びていく、過ぎ去っていくものだからこそ、大切なもの、いとおしいものだ、ということです。それは、ものにしろ、人も同じです。大切にしたいと思います。

(神戸教区主教)