アンデレ便り12月号:教区に宣教委員会設立

 11月23日(火)開催の教区会では、午後の1時間を割いて、教区会議員・代議員を対象に、セクシュアル・ハラスメントの啓発活動を実施しました。教区会開催中に、議案と直接関係のない事柄のために時間を設けたことは、久方ぶりのことでした。セクシュアル・ハラスメント対策委員会では来年度、複数の伝道区で、講演会などを実施する予定です。同時に、ハラスメント全般を取り扱う組織改編に向けて、調査、研究が開始されます。

宣教協議会開催

  今教区会で最も重要な議案は「宣教委員会」設置の件でした。主教の諮問機関としてたてられた「宣教検討委員会」は2年の歳月を費やして神戸教区の宣教問題を検討してきました。アンケートや統計の分析などを通して、教会が抱えている諸問題を、教会員はどのように対応しているのか、問題解決が見いだせない原因は何か、各教会の宣教に、教区はどのようなかたちで参与し、貢献できるかを中心に協議し、それが「教区宣教委員会規則」で表現されました。
  来年の7月18日(月・海の日)、教区宣教協議会を開催します。「教会の健康診断実施には、相当な覚悟が求められます。このまま、問題点を深く考えずに、毎日を大過なく過ごすほうが、よっぽど安全で幸せかと錯覚するからです。問題が露わになれば、教会の志気に影響することを危惧する方も多くおられると想像します。大変な努力と熱意がなければ、教会の実態を、関係者が共有し、共通理解を得ることは困難です。しかも、この過程を経ずに、いくら幻を掲げても、それは机上の空論となることは明白です。従って、何もしない方がよい、ということになりかねません。」(教区会開会演説より)
  ある教会で礼拝後、「4、5年計画で宣教の幻を共有する必要があります。」と訴えたところ、「時すでに遅しで、5年後は、この教会の信徒は激減しているかもしれませんよ。」と、早急な解決策実施の必要性を訴えられました。
  黙想の材料としてある朝、「同情の心ーシリアの聖イサクによる黙想の60日」の一節を読みました。「もし、あらゆる場所とあらゆる環境において、あなたが自分の心の視界を労苦と困難の上に定めるなら、あなたはいつでも勇気に満ちた自分自身を見いだし、明白な困難全てに対して、ためらうことなく、立ち上がることができるであろう。心の思いが楽しみに向けられている人々の心の中に、通常、生まれてきやすい臆病さは、あなたの熟考の力を通して、逃げ去ってしまうであろう」。
  「窮鼠猫を噛む」とのことわざ通り、宣教不振という危機感を共有することが大きな力を生み出すのです。

からだの健康診断 そのⅢ

 信徒の方々の多くは、率直になって会話をすることが困難な信徒や教役者に悩まされているようです。例えば、会議というのは、提出された議題を理解し、質疑を通してより客観的、公正な立場で判断する場で、当然、そこでは、感情や私利私欲を極力廃除することが要求されます。現実はどうでしょうか。教会の様々な会議では、意見はあまりでずに決定がなされたり、声が大きく、押しの強い人の意向に左右されていないでしょうか。その結果、毎年同じパターンの教会行事を行うことになるのです。教会には閉塞感がみなぎり、それが他の人たちへの批判に向かっていく傾向となります。日曜日の礼拝後、親しい人たちが群れて、レストランや喫茶店に行き、食事やコーヒーを飲みながら、牧師や信徒の悪口を言い合って欲求不満の解消としている場面をみかけます。

このなかの一人がメシアだ

 ヒマラヤ山中で導師(グルー)が瞑想に明け暮れておりました。あるとき、目の前に西ヨーロッパで有名な修道院の院長が座っていました。修道院長は、「かつて修道院は西ヨーロッパでは有名で、若い志願者で溢れ、礼拝堂は、修道士の声が響き渡りました。時代と共に人びとは修道院を必要としなくなり、志願者が激減し、礼拝堂は静まりかえり、わずかばかりの修道士が、沈んだ気分で、聖務日課を守っております。修道院がこのようになってしまったのは、自分たちの何かの罪が原因なのですか。」と尋ねました。「それは、わからないでいるという罪です。あなた方のなかの一人はメシアでおられる。しかも、姿を変えておられる。あなたがたはそのことを知らないでいるのだ。」と導師は答えました。
  修道院に帰る道で院長は、色々と思い巡らしました。「メシアが再臨されて自分たちの修道院におられる。なぜ、今までそのことに気づかなかったのだろうか。それは食事担当の修道士なのか。礼拝係なのか。会計担当か。もしかして副院長かもしれない。そんなことは考えられない。だれも彼も欠点、弱点だらけだ。だが、姿を変えていると、導師は言われた。欠点、弱点はむしろ、姿を変えるための手段かもしれない。そうであれば、修道士のうち、一人がメシアであっても不思議はない。」
  修道院に戻り、全員を集めて、導師が言ったことを話しました。一同は信じられないという表情で互いに見交わしました。メシアがここにいる。一体誰なのか。そこで修道士は、だれであろうと、出会う相手に尊敬と思いやりをもって対応するように心がけ始めました。そのうちに、修道院の雰囲気は次第に活気に溢れ、喜びに満ちたものに変えられたのでした。やがて、数十人の志願者が入会を求めてきました。このようにして、礼拝堂には、互いに愛するという姿勢に燃えたつ修道士の賛美の声が礼拝堂に響き渡ったのでした。

「平和の挨拶」

  聖餐の聖奠(サクラメント)は「平和の挨拶」ではじまります。初代教会では、これを「平和の接吻」といい、信徒が互いに接吻をしていたそうです。日本では接吻の習慣はありませんから、互いに「主の平和」と言って、礼をしたり、握手をします。聖餐式に参加している者全てがキリストにあって一つの家族であることを、挨拶という行為によって表現するのが「平和の挨拶」です。
  第2の意味は、この後、奉献をしますが、祭壇に献げものをもっていこうとする時には、兄弟と和解していなければならないのです(マタイ福音書5章23,24節)。従って、お互いの和解のしるしとして、「平和の挨拶」を交わすのです。
  キリストの枝に属する人たち全ては、様々な欠点や弱さをもちつつ、兄弟姉妹であることを忘れてはならないのです。 

  あと1か月余りで2010年が終わります。神戸教区の関係者のご奉仕と祈りにより、教区の全ての行事を終えることができました。感謝いたします。クリスマスを迎えるにあたり、皆様の上にご降誕の喜びが豊かにありますよう、お祈り申しあげます。