アンデレ便り10月号:労働のよろこび -マタイ福音書19章「ぶどう園の労働者」から学ぶ-

間もなく、私たちは秋の収穫のときを迎えますが、今月は、労働について思い巡らしてみたいと思います。

奉仕と対価

 16年まえの阪神・淡路大震災のとき、大震災の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の癒しのため、医師、看護婦、大学の先生を中心にした組織が結成され、私もこの会に関わり、震災関連のシンポジウムに出席しました。驚いたのは、神戸市内で開業している医師の話でした。この病院には全国各地から医師が続々と詰めかけ、24時間体制で心に傷を負った人たちの電話相談を約8か月間行いました。医師は、PTSDの様々な原因を紹介し、今後のケアーを説明した後、「ボランティアの医者の数はこれこれで、奉仕した延べ時間はこれだけで、医者の時間給はこれくらいですから、この奉仕を金銭に換算すると約3千万円になります。」と締めくくりました。震災後、信じられないくらい数多くの人たちが救援に駆けつけ、黙々と作業をしている状況下で、自分たちの労働奉仕を対価に換算してしまう発表を、寂しい思いで聴きました。

マックス・ウエーバーとハイデルベルグ大学

 3年前、イギリスで開催されたランベス会議後、ドイツのハイデルベルグ大学で教鞭をとっておられた荒井章三先生ご夫妻を訪ねました。
 私たちは、川くだりの船に乗り、ビールを呑み、スナックをつまみながら、川沿いの風景に魅入っておりました。途中、「あそこは、かつてマックス・ウエーバーが住んでいたところです。」と、川沿に建つ家を荒井先生は指さしました。マックス・ウエーバーがこの大学で教えていたことを初めて知りました。大学では、経済学を受講しましたが、この人が書いた、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本を参考書にしていたことを思い出しました。

労働の価値

 宗教改革者たちは、俗世界に生きる人たちが職業に従事することも、神さまからの呼びかけに応えることだと説き、聖職だけが、神様の召しにかなった生き方であると主張する、中世の職業理解を否定し、これがその後の、資本主義社会構築の精神的裏付けとなったということを、マックス・ウエーバーがこの本で述べていたことだけは、うる覚えに理解しておりました。
  「ある労働者が、作物の刈り入れ作業の賃金として1モルゲン(3分の2エーカー)当たり1マルクを受け取り、1日に2.5モルゲンの土地で刈り入れ作業をして、賃金は2.5マルクになる。ここで経営者は、1モルゲン当たりの賃金を1.25マルクに引き上げた。労働者が収入の増加を目指して、それまでの作業量を2.5から3モルゲンに増やし、受け取る賃金を3.75マルクにすることを期待したのである。しかし実際は、労働者1日の作業量は2モルゲンで、2.5マルクの収入で満足したのである。労働者は、できるだけ多く働ければ、一日あたりいくら稼げるか、と自問したのではなく、『2.5マルクという、これまでの賃金を手にするためには、そして日々の伝統的な必要を満たすためには、いったいどれだけ働かなければならないか』と自問したのである。・・・・・・これは長期的な教育的プロセスの結果として生まれるものなのである。・・・・・・少なくとも、働いているあいだだけは、仕事の量をできるだけ減らし、できるだけ楽をして働きながら、それでもいつもと同じ賃金を稼ぐにはどうしたらよいかを、絶えず考えてはならない。むしろ仕事が絶対的な自己目的であり、『天職(ベルーフ)』でもあるかのように労働するという心構えが必要である。・・・・・・前資本主義的な人々にとっては、金と財貨という物質的な富の重荷だけを背負って墓に下ることを自分の一生の仕事の目的として考える人がいるとすれば、それは呪われた金銭欲という倒錯した欲動の産物としてしか、説明できないと思われる。」 (1章2節)

神の国の労働

 「ぶどう園のたとえ」で労働者は、1日1デナリオンという約束で雇われました。しかし、日当を払う段になりますと、僅か1時間しか働かなかった者が1デナリオンを得られるのなら、明け方から夕方まで、汗水たらして12時間も働いた自分たちに対して、賃金の上乗せは当然である、と主人に訴えます。しかし、神の国での労働は、暗闇迫る午後6時に終えねばならないようです。人の労働量は限られておりますから、それを穴埋めするかたちで、午後からも人を雇いましたが、それも、神さまから見たならば、大変価値ある労働になるのです。
  このような状況下で、12時間労働した人も、1時間労働した人も、生きる意味を見つけ、人生を有意義なものとしたかどうかが問われます。労働を通して、生活の糧が与えられました。その糧のもとである神に感謝し、一緒になって同じ労働するということを通して、心のふれあいが生まれるはずであったのです。しかし、お金を得ることだけが目的の人たちにとっては、感謝や感激は得られないのです。
  キリストに属する私たちは、愛の絆で結ばれた祈りと交わり、他者に対する奉仕の業にいそしむことを通して、神の国をこの世に実現する器として用いられているのです