アンデレ便り11月号:おもてなしの心

 2020年オリンピック開催地を決定する国際オリンピック総会での東京誘致プレゼンテーションで、滝川クリステルさんは、日本人のおもてなしの心をアピールをしました。
  4週間前、世界MtS担当主教会議のためロンドンに行きましたが、東京が開催地に決まったことに関して、MtSチャプレン担当部長ヒュー司祭は、ロンドン・オリンピックの時、ロンドン市民の態度が、がらりとかわったことを話して下さいました。ロンドンの人はだいたいにおいて、外国人を含む他人に関しては無関心で、通行人が困っていても、平気で通り過ぎていきます。ところが、ロンドン・オリンピック時には、心の奥底に隠されていた親切心が突然頭をもたげ、外国人が困っているとき、積極的に話しかけて、相談にのったということです。日本人も、語学力の問題により、外国から来た人たちに親切に接しているとは思いませんが、恐らく、東京オリンピックが近づくにつれ、おもてなしが大々的にアピールされ、英会話を勉強する人たちが増えることでしょう。
  おもてなしの英語、ホスピタリティーは、元々、キリスト教からきており、貧しい人たちに食料や宿を提供したり、旅人、特に巡礼者をもてなすことが信仰者の義務なのです。日本の場合でも、お遍路さんには、地元の人たちが手厚くもてなし、食堂などでは、食事代も取らないところもあるように聞きます。
  現在、日本の人口は、1億2千700万人ですが、50年後には8、300万人となり、4、000万人以上減少し、恐らく海外からの人たちの受入は避けて通ることができない時代が到来することでしょう。高齢者介護に関しては、インドネシアやフィリピンの人たちが最適ではなかろうかと思います。理由の一つとして、あちらの国では、兄弟が5,6人というのはざらで、そのような環境のなかで、兄弟に対して本音で接することにより、互いの理解を得る訓練を自然と身につけて育っていくわけです。
  あるフィリピンの女性に、日本人高齢者に対する思いやりについて聞いたところ、私たちはすぐに相手が何を望んでいるのかわかります、という返事が返ってきました。
  神戸でもホームステイが盛んですが、ついつい受け入れ側が接待過剰となり、4,5日もすると、精神的にも肉体的にも疲労困憊してしまったケースが多く見られます。
  ルカ福音書10章に、マルタが、イエスを招待したときの出来事が載せられております。マルタはイエスを迎えるにふさわしい接待をするために食事のメニューを考え、その準備におおわらわです。一方、マリヤはイエスが来たとき、応接間にイエスを通してイエスの足下に座ってイエスの話をじっと聞き、食事の支度を手伝おうとはしないのです。マルタは食事づくりが思うようにはかどらずいらいらがつのり、マリアの振る舞いに怒り心頭、応接間に入ってきて、何も手伝おうとしないマリヤを叱ってください、とイエスに頼むのですが「マルタは多くのことに思 い悩み、心を乱している」とイエスはおっしゃいました。
  一昔前、成金の日本人が、ガイドさんに引率されてヨーロッパ各地を訪れました。ガイドさんの役割は、旅行者の、どのような要求でもかなえてあげる、という姿勢でした。それによって、日本人の振る舞いは多くの国で顰蹙を買いました。
  おもてなしとは、相手の欲求を充足させるために何かを提供するものではなく、気を遣うことなく、安心して過ごせる場や人を提供することだと思います。
     (10月17日・六甲山ホテルチャペル創立記念礼拝説教より)

あなたこそ神の助けが必要です

 昨年の5月、京阪神3教区は小名浜在住の被災者救援活動の今後について協議しました。それぞれの教区では、人材派遣や救援資金などの問題を抱えておりましたが、仮設住宅自治会から存続への強い要望書を受け取っており、活動を1年間、延長することにしました。
  仮設住宅自治会が要望した理由の一つとして、福音派の信徒ボランティアのうち数名が活動そっちのけで、被災者に教会勧誘活動を行っているからというものです。これに反し、聖公会ボランティアは、教会のことはめったに口にしません。この態度や姿勢が、被災者救援活動にとって必要なことだとの認識を、自治会の人たちは抱いているのです。これは、キリスト者として、神戸教区内各教会で行おうとしている地域社会への働きかけの姿勢に大きな示唆を与えてくれます。
  このような声をしばしば聞きます。「幼稚園の先生や保護者に、教会の礼拝に出てくれるよう、信徒はもっと働きかけをしなければならない。」 何十年前からこのように叫ばれてきておりますが、釣果はゼロに等しいのです。では、家庭ではどうでしょうか。キリスト者の息子・娘たちに、もっと教会の礼拝や集会に参加するよう、その必要性をアピールしてきたのでしょうか。子どもたちが社会人となっても、教会生活を忠実に送ってくれる基礎を家庭教育において築いてきたでしょうか。もしもこれが成功しておれば、日本のキリスト教人口はもっと増加していたはずです。それができないでいるという現実を率直に認め、その原因はどこにあったかの検証を抜きにして、地域社会への貢献は難しいと思われます。原因の根源は私たち自身のなかにあるのです。
  最後の晩餐のあと、イエスは上着を脱いで弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められました。しかし、ペテロは「私の足など、決して洗わないでください」と言いました。ペテロは他人からの援助を必要としている人間ではない、自分のことは自分で解決できることを表明したのです。これがいわゆる健常者の倫理であり、多くのボランティアはこの姿勢で様々な活動に関わっているといえます。教役者や信徒もいつのまにか、この倫理の影響を受けて「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して(ルカ8:9)」いるかもしれないのです。
  謙遜な神が、あなたにお仕えしましょうと願いでて、私たちの自尊心が粉々になったとき、「主よ、足だけでなく、手も頭も」洗ってください、と言うようになります。
  このように、私たちが自分の過ちや弱さに気づき、どうか、これらを洗い清めてくださいと神に願うならば、困難のなかにある人たちに何が必要であるかに気づかされ、その人たちへの奉仕の業が開始されるのです。