アンデレ便り6月号:働く女性の参加が不可欠

 3年に一度の神戸教区婦人会大会が、5月20日(火)から21日(水)まで、米子で開催されました。今回の大会の講演者は、カトリック教会のシスター渡辺で、「置かれたところで咲く」と題するお話を伺いました。参加希望者が200名を超え、入場を断る事態までになりました。信仰歴に基づいたお話に、多くの人たちが感動を覚えておりましたが、私自身が印象に残ったのは、「洗礼を受けてもまともな人間に変わっていないではないか。それでもあなたはクリスチャンなの?」と母親が言ったという言葉です。シスター渡辺が、学生時代に「今の自分が嫌なら洗礼を受けなさい。洗礼を受けると新しい人になれる」とシスターに勧められ、母親の大反対を押し切って洗礼を受けた後のことでした。
  以下は、婦人会大会閉会礼拝説教の抜粋です。

働く女性の参加が不可欠

 昨年4月の統計によりますと、15歳から65歳の女性人口5740万人のうち、就業者は2767万人で62%を超えております。つまり、10人に6名以上は何らかの形で仕事についております。神戸教区の地域に関しては、就業率が平均より高い県は、島根74.8%、鳥取71.8、高知66.7%、徳島61.8%となっております。この数字からわかりますように、婦人会は、働く女性の参加が不可欠であると同時に、私たち誰もが経験したことのない超高齢者社会を迎えて、ご高齢の信徒が安心して教会生活・社会生活を送れるような環境作りに一役買う婦人会のあり方が、求められております。
  このようななか、神戸教区の懸案事項の第一は、若い世代や中年の人たちが加わっての宣教活動の活性化実現です。各教会には、宣教のビジョンと具体的な行動計画を立案するようにお願いしてきましたが、それに基づいて様々な計画が実施に移されることを期待しております。計画を練るためには、多くの人たちがこれに加わる必要があり、それを実行に移すためには、やはり、人の力が必要となります。では、宣教活動は何を基盤にして行われるのでしょうか。

信徒の賜物を活かす教会へ

 1960年、オランダの神学者ヘンドリック・クレーマーが、2か月間日本に滞在し「日本の教会に対する批判」という文章を書いております。それから50年以上もたちましたが、クレーマーの批判は、今日においても、ある部分では的を射ているといえます。
  クレーマーは次のように述べております。
  日本の教会は、かつて西洋の宣教師から与えられた概念、型、構造にあまりにもきちんとはまり込み、それに固執しすぎている。このような過去のイメージが、皆さんにとって は、聖なる、犯すべからざるもの、変更など思いもよらぬものと考えられている。だから、 日本の教会は、他に対して宣教しようとしながら、一般からは、真に自己中心的、閉鎖的な生き方をしていると見られている。
  要するに、皆さんの間には、聖書的な自由闊達さが見られない。皆さんは言う。日本のキリスト者は少数者であると。しかし、もし、皆さんが自己革新的なキリスト者となれば、信者の数は問題ではない。キリスト者とは、その少数にひるまず、多数を誇らず、ひたすら真実な信仰によって、預言的に生きるものではないか。
  みなさんの間では、教会生活と日常生活とが分離しているが、これは大きな誤解だ。教会は日常生活のまっただ中にあってこそ、生きていくべきものなのだ。
  伝道とはなにか。日本の教会は、伝道といえば、直接伝道と信徒の生活による間接伝道とがあるが、日本の現状では、直接伝道よりも間接伝道が特に必要なのである。つまり、日本のように社会的、経済的、また文化的に高度にひらけた国においては、西洋諸国の伝道のやり方、すなわち、鳴り物入りのキャンペーン型伝道が成功するとは、私には到底思えない。
  講演の中で、クレーマーが“You,laymen are frozen people”と表現しました。frozen peopleは「冷凍人間」と翻訳できますが、アメリカでは、五十肩のことをfrozen shoulderというそうで、日頃使っていないと肩は固くなってしまう。つまり、あなた方、信徒たちは(賜物を)使っていないのでこちこちになっている、と言いたかったわけです。
  聖職主導から、聖職と信徒の賜物を活かし、協働によって実施される宣教活動によって、今までとはひと味違った教会の姿に変貌することが、切に望まれております。

 

『主よ、わが務めを助けたまわんことを』

 今年の4月で主教聖別10年目を迎えましたが、4月20日の復活日礼拝後、聖ミカエル日曜学校生徒から、10年をお祝いする花束をいただき、恐縮しました。

  主教に聖別される直前の3日間、和歌山の神愛修女会のレトリートハウスにおじゃまして、静想の時を持ちました。植松従爾主教が指導に当たってくださいましたが、主教の心構えとして、植松主教は私に次の質問をされました。
  「主教であれ司祭であれ、聖職は色々な場所に遣わされるにあたり、その姿勢は常に『主よ、つねに我とともにいましてわが務めを助けたまわんことを』でなければならないのです。かつて横浜教区では、先輩聖職は若い聖職に対して、ことあるごとに、この言葉を思い出すよう諭していました。ところで中村君、この祈りはどこにあるか知っていますか。」
  どこかで聞いたことがあるような、ないような文言でしたが、私は答えることができませんでした。この祈り、実は今の口語訳祈祷書には削除されましたが、文語祈祷書では、牧師任命式のとき、新任牧師が会衆の前で祈る一節であったのです。
  牧師は常に神が共におられるのを念頭に牧会活動に当たらなければならない。神さまの助けなくしては、牧師はどのようなよい業も遂行することができないことを意味します。主教も同様で、自分の思いや願いを払拭して、神さまの御心を見極め、職務を遂行しなければならないことを再確認して、第三コーナーを回っているところです。