アンデレ便り10月号:農村から都市へ - 姫路顕栄教会の変遷

 晴天に恵まれた9月23日(火)、姫路顕栄教会創立125周年記念式典には、教区内教会の殆どの牧師と、各地から馳せ参じた信徒を加えて約300名が参加し、盛大にお祝いすることができました。

 顕栄教会は、1889年1月6日の顕現日に兵庫県加東郡福田村中古瀬で産声を上げましたが、大正時代に姫路市内に移転しました。信徒数の著しい減少がその理由であるというのは、神戸国際大学の吉田弘教授が記された、顕栄教会の草創期から、教会が市内の五軒邸に移動する間の信徒数から推測されます。日本社会の農村崩壊に多いに関係あることが、別の資料でも明らかなのです。
  明治時代、キリスト教禁教が解かれ、地方では、多くの人たちがキリスト教に関心を持ちました。戦国時代、織田信長や毛利元就がもっとも恐れたのが一向宗や安芸門徒でした。門徒は村ごとに講をもち、互いに身分に関わりなく横につながり、結束していたからです。他の領の人たちとも連絡を取り合い、所属する主君とは別に信仰上の主人は本願寺でした。この組織は徳川時代を通しても維持され、文明開化と共に、人びとがキリスト教を受け容れる素地となったと思います。イエスの説く隣人愛や、奉仕の心を持って他者と協働することが神の御心にかなっているという教えは、多くの村人たちの心を打ったに違いありません。
  このようにして、村の地主や有力者の多くが洗礼を受けました。宣教師もそのような人 たちを標的にして伝道しました。
  ところが、日清・日露戦争を戦った日本に大きな問題が生じました。農村から多くの若者が徴兵され、戦死することによって農家の労働力が次第に失われ、加えて、国は戦費調達のために高い税金を課しました。日露戦争の場合、戦争資金が枯渇し、最後に救いの手 を差し伸べたのが、リーマン・ショックで歴史的に有名になった、ロンドンのリーマンブラザーズでした。
  一体何を目的にして戦争するのかという疑問を、国民の多くが抱くのは当然です。政府は、富国強兵こそ諸外国に太刀打ちできる唯一の道であると人びとを鼓舞し、教育勅語を制定することによって、日本国民への道徳教育を実施しました。世界史的にみますと、近代の国家が宗教や倫理、独特の固有の価値あるものに介入しません。上から国民に対して道徳倫理を縛り付けようとしたのは、日本以外に中国しかなかったのです。
  農村では、村に最低でも一つの神社を設け、氏子総代は村の重鎮が就任しました。氏子 総代の多くは、かつてのキリスト者でしたが、国は、天皇と神がどちらが偉いか、という質問を村人につきつけたのです。同じような動きが1970年代にありました。自民党が靖国神社法案を強行採決しようとしているとき、司馬遼太郎さんは、「近代というのは、ひとびとの様々な価値観を容認する社会のことで、明治的国家神道という一つの信仰形態に過ぎないものを人々の税金で運営されている国家に移そう等というのは、中世末期の封建領主の思想と変わらない。」と喝破しました。
  第二次世界大戦後、日本の復興は目を見張るものがありますが、それは、日本だけで達成されました。戦前、日本の指導者は、朝鮮半島や満州、台湾などを併合する必要性を主張し、戦争に突入しましたが、どうしてこのようなことを主張し、日本を敗戦に導いたのかは謎とされています。

 大正時代には多くの地域で農村が崩壊し、農民は土地を捨てて、都市に移住していったのです。加東町にあった教会も移転をやむなくされたと推測されるのです。そして、そこから現在地への移転です。
  50年前、わずか十数名の信徒が、五軒邸から現在の地への移転を決断することは、正しく出エジプトの心境であったこと、移転後多くの人材が育てられ今の教会に成長したこと、神様の導きなくしては現在の教会は存在しないという、記念礼拝後に述べられた野間悦三さんの挨拶には胸を打たれました。
  姫路顕栄教会は、国家の姿勢や社会の変化のなかで、牧師・信徒が知恵を絞って、その時代に要求される信仰のあり方、地域社会への貢献を考え、宣教活動を実施してきたといえます。

 低温サウナのなかの労働 - 青年交流会ワークキャンプ

 6月、長田司祭から「主教、今回の青年交流会ワークに是非参加してください。」と懇願され、これを軽く承諾してしまい、内心、後悔しました。瀬山公一司祭から労働の内容を聞きますと、「墓地周辺に密生する竹の伐採と環境整備です。簡単なもんですよ。」という返事。簡単といわれても、最近、経年劣化が著しいこの身体では、途中でへばってしまうのではないか、との不安が頭をよぎり、ウオーキングを決意しました。7月のかんかん照りの午後、二日続けて、こっそりとビーナスブリッジまで登り、後の1回は、自宅から布引の滝まで登りましたが、それ以後、歩く気持ちが萎えてしまいました。
  気合いをいれて臨んだワーク初日、ミニ盆地状の墓地周辺に生息する、異常に背の高い竹をのこぎりで切るのですが、みるみるうちに体温が上昇、10分もしますと、汗びっしょりとなりました。ところが、風が全く吹きませんので、発汗が止まらないのです。20分もすると、もうへとへと状態です。ここで、教役者や青年たちの前で弱みを見せてはなりません。じっと耐え、我慢しながら平静を装ううちに、次第に身体がここの環境に順応してきたようです。作業は2日間で無事終了。鳴門ワーク以来のハードな作業でしたが、久しぶりにさわやかな汗をかくことができたのが、今回のワークキャンプでした。