日本聖公会 神戸教区ホームページです。このホームページにはキリスト教信仰に関わる情報が集約されています。

主教からのメッセージ

アンデレ便り3月号:クライストチャーチ地震

2011年3月1日

 2月22日(火)午後0時51分(現地時間)、ニュージーランド、クライストチャーチをマグニチュード6.3の地震が襲いました。多くの死傷者が出ており、3日経った25日(金)に至っても、留学中の多くの日本人の安否の確認が出来ておりません。テレビの映像でたびたび映し出される聖公会のクライストチャーチ大聖堂は、壊滅的な打撃を受けました。

大聖堂内で多くの死者

 クライストチャーチ大聖堂のピーター・ベック主席司祭は、BBCラジオのインタビューに、「大聖堂はニュージーランドでは、観光客が最も訪れる場所の一つで、地震発生時、礼拝中ではなかったのですが、私を含め、多くの人たちが聖堂内におりました。大きな揺れと共に大聖堂内部は、まるで霧が立ちこめたようになりました。幸いなことに、他の人たちと共に、そこから脱出することができました。しかし、鐘楼上部が崩壊し、そこにいた人たちの安否を心配しております。この大聖堂は、150年前、ギルバート・スコットにより設計されたものですが、震災によって犠牲になった人たちの価値に比べれば、大聖堂がこのような状態になったことは微々たるものです。建物は建物なのです。」と述べました。
  25日(金)、警察当局は、「大聖堂内に生存者はいない模様で、16名から20名が死亡した。大聖堂事務職員9名は無事であるが、ボランティアスタッフ1名が負傷し、病院に運ばれている。」と発表しております。
  国の重要文化財に指定されていた、バステスト・メソジスト・長老派各教会は、昨年9月4日に発生した地震により被害を受け、復旧工事の最中でしたが、今回の地震により崩壊してしまいました。
  クライストチャーチ教区からは、全聖公会に震災犠牲者、被災者、救援活動のために祈りを献げて欲しいとのメールを受け取りました。

祈りと支援を

 ニュージーランドには行ったことはありませんが、3年前のランベス会議終了後の翌朝、ケント大学の食堂で朝食を食べているとき、丁度目の前に、この年の8月にクライストチャーチ教区主教に着座予定のビクトリア・マシュー主教が座っており、雑談しました。ランベス会議で会った最後の主教がこの方です。その後、汽車でロンドンに到着、夕方、ウエストミンスター寺院の夕の礼拝に出席しました。その礼拝の時、美しい歌声で礼拝を盛り上げていたのが、クライストチャーチ聖歌隊でした。夏期休暇を利用して、英国聖公会内各地の大聖堂や教会で武者修行をしていたのです。この礼拝には、カナダから、マクドナルド司祭の娘さんご夫妻も出席しておりました。英国聖公会司祭の息子であるギルバート・スコットは、ロンドンのセント・パンクラス駅の設計者であると共に、私が学んだケラム修道院も設計しました。
  ニュージーランドの他の教区から続々と被災者救援のために人材や資材が運ばれていることが教区のホーム・ページから伝わってきます。1日も早く復興することを願うと共に、教区の皆様の祈りと支援を宜しくお願いいたします。

キリストの福音を伝えよう

 2月11日、主教に按手・聖別され、東京教区主教に着座された大畑喜道主教の歓迎レセプションがその前夕、東京品川のホテルで行われました。大畑主教は、私が立教高校のチャプレンであった35年前の生徒でした。当時の立教高校から大畑主教以外に2名が聖職に召されましたが、現在残っているのは、大畑主教のみです。臨時主教会での席上、大畑新主教に、「どうか、2人が果たせなかった分までがんばって下さい」とお願いしました。
  レセプションの後、私が英国ケラム神学校から帰国し、短期間、聖公会神学院に居候していた当時の神学生たちが品川駅近くの居酒屋に集合、懐かしい想い出などの話に花を咲かせました。
  話題は聖公会の教勢の低下に及びました。そこには多くの原因が横たわっていますが、聖職にとっては、説教の内容が問題であるということでした。説教では、当然、キリストの福音を会衆に伝えなければなりませんが、それを語らずに、今私たちが置かれている状況に即した道徳・倫理のレベルでの話しに終始し、それがキリスト者が本来持つべき、信仰の確信や交わりを阻害している原因となっているという自己批判となりました。

英国聖公会歴史から学ぶ

 理性の時代を迎えた18世紀の英国の教会では、合理主義が一世を風靡し、科学者が非合理とする信仰を否定しました。例えば、イエスが湖の上を歩いたという奇蹟物語を、イエスが神の子であることを証明するために、神はただ一度だけ、ニュートンの重力の法則を破ったのだと説明しました。しかし、これでは信徒は納得しません。聖職を含めて、当時の多くの人たちはイエスの奇跡物語、処女降誕、復活は全く非合理的な出来事として捕らえ、説教壇からは、道徳、倫理の大家としてのイエスを会衆に説いていたのです。加えて、高位聖職者は、信徒を放置して、狐狩りや旅行を楽しみました。教会の堕落を目の当たりにして、多くの信徒が教会に失望し、教会を離れましたが、牧師はこの人たちに対して何の牧会的配慮をせず、放置したのです。英国国教会は次第に衰退し、何かの本で読んだ記憶によれば、1700年の復活日、ロンドン聖パウロ大聖堂の礼拝出席者は10数名であったそうです。
  このようななか、18世紀後半から19世紀前半にかけて、信仰復興運動が起こりました。まず、ジョン・ウエスレー司祭がメソジスト運動をおこし、それから約50年後、ヘンリー・ニューマン司祭が主導者となり、オックスフォード運動が起こりました。メソジスト運動では、聖公会員の多くがこの運動に賛同して聖公会を離れ、メソジスト教会に転会しました。オックスフォード運動では、初代教会から受け継がれてきた教会の伝統と歴史、慣習の再発見を促し、これが礼拝刷新運動として実を結びました。
この2つの運動が、英国聖公会を再生させる原動力となったのです。今、神戸教区においても、信仰の覚醒運動が切に望まれております。