日本聖公会 神戸教区ホームページです。このホームページにはキリスト教信仰に関わる情報が集約されています。

主教からのメッセージ

アンデレ便り4月号:東日本に大地震・大津波発生

2011年4月1日

 アンデレ便り1月号では、16年前の阪神・淡路大震災について、2月号にはニュージーランド、クライストチャーチ地震について書きました。今回も大地震のことについて書かざるを得ない、悲しい状況となりました。3月11日に発生した大地震は、大津波を引き起こし、大津波は原子力発電所を直撃し、電気系統や機器を破壊し、容器内への注水が十分になされず燃料棒が露出しました。緊急処置として、容器内のガスを逃がし、空気中に放射能が流出、周辺地域に大きな被害を与えております。大地震・大津波・放射能流出という、三重の魔の手が、一瞬のうちに、東日本地域に住む人や建物を押しつぶし、粉々にして、生き延びた人たちを苦しみのどん底に追いやったのです。

神戸教区、救援本部を設置

 テレビの映像などを見て、兵庫県南部に住む私たちが16年前に経験した、阪神・淡路大震災時の約6,500名を上回る、大惨事になるのではないか、と予測しました。大震災発生の翌日の12日、神戸教区は、緊急事態に対応するため、救援本部を立ち上げました。地震・津波によって生き延びることができた人たちや、震災の影響を受けなかった地域の人たちは、家族、友人、知人の安否を必死の思いで確認しておりましたが、通信網、交通網が寸断されている状態のなかでの作業は遅々として進みませんでした。
3月20日の日曜日、神戸教区内各教会・伝道所で、共に大震災で犠牲となった人たち、被災者、救援に当たる人たちのために祈りを献げました。阪神・淡路大震災被災者は、被災地外から救援に駆けつけて来られた人たちによって、大きな励ましが与えられました。それによって、どれだけ私たちの心が癒され、生きる勇気、希望が与えられたでしょうか。神戸の街が現在のようなかたちに復興できたのは、背後に、多くの人たちの、篤い祈りと支援があったからなのです。

被災地に支援の手を!

 3月24日(木)、東北教区の要請に応えて、神戸教区は小名浜聖テモテ教会が実施しております救援活動に加わることを決定しました。現地の教会は、小名浜地域の被災者約400名に対し、日本各地から寄せられております救援物資を仕分けし、教会地域の、高齢者福祉施設、病院など、約10の施設へ、配給しております。
3月26日(土)に坪井執事と神戸聖ヨハネ教会信徒長野拓也兄が現地入りをし、作業を開始、翌日の27日(日)午後1時、原田・上原司祭、杉野・浪花神学生が救援物資を満載した車2台で、神戸を出発しました。2台の車は大渋滞に遭遇しつつ、パーキングエリアで休憩を取りながら、翌朝7時前に小名浜に到着し、早速、救援物資の仕分け作業に着手しました。

 小名浜における、第一次支援活動は4月6日を持って終了しますが、引き続き、他の被災地域への支援を実施する予定です。日本聖公会管区では、救援物資集荷場を東京と名古屋に設置し、全国の教会、聖公会関係諸団体に物資の供出を呼びかけておりますが、関係者のご支援、ご協力をお願いいたします。

 「空」ということ

 旧約聖書『コヘレトの言葉』には、人生で起こる両極端の出来事14を列挙し、すべては「定められた時」の中に置かれているといいます。人は、喜怒哀楽がある様々な出来事を日々、毎年、経験しながら生きており、それを「定められた時」というのです。ところが、その時は全て空なのです。空というのは無ではなくて、実体性を欠いていることを意味する言葉です。実体を欠く現象というのは、常に変化し、無常ということになります。空のヘブライ語は「ヘベル」というそうですが、これは蒸気、気息などの意味で、これが転じて、実体のないはかない現象を意味するのです。
 人は、「時」を見極めていく必要があるのですが、それを見極めても、なお、その時のすべてを知ることはできない。永遠を思う心を神から与えられながら、神の業を知ることができないなら、それが一体何になるのか、という疑問をコヘレトは抱いたのです。
コヘレトは神の存在を疑ってはおりません。しかし、神が人間に関心をもっているかどうか、人と深い関わりをもとうとしているのかどうかを疑い、「善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。(8:14)」と言い、これまた大きな矛盾であり、空しいことなのです。
コヘレトの言葉は、まさに、今大震災によって悩み、苦しんでいる人たちの思いを代弁していると思います。

無常ということ

 宗教学者の山折哲雄さんが、「震災の悲しみ、寄り添おう」と題して、次のような一文を新聞に投稿されました。
 「岩手や宮城県内に親類がいますが、連絡を取ろうとしていますが、つながりません。覚悟を迫られる時がくるかもしれない。海が裂けるような大津波の恐怖を味わったみなさんには、どんな慰めの言葉もありません。なぜ、あの人は死に、私は生きているのか、と問いますと、無常という言葉が浮かんできます。先人は自然の猛威に頭を垂れ、耐えてきた。日本人の心のDNAとも呼べる無常の重さをかみしめています。みなさんの悲しみを取り除くことはできません。共有することもできません。でも、みなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま、立ち直っていくことはできるのです。それは、皆さんと無常を受け止めていくことだと思います。」

 イエスは、多くの人の病を負い、苦しみを担い、ただ独り、十字架を担いでゴルゴダの丘に至り、苦しみ、死なれました。今存在するものが、明日なくなるかも知れない、今は、幸せの状態にあるけれども、それが泡のように消え去るかもしれない、そのような無常の世界にあって、イエスの十字架の苦しみと死の向こうに、普遍的な世界、神の国が、存在しているのだ、という確信が、私たちの人生に意味を与えることを覚えたいものです。