日本聖公会 神戸教区ホームページです。このホームページにはキリスト教信仰に関わる情報が集約されています。

主教からのメッセージ

アンデレ便り7月号:わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!

2012年7月1日

 約1年前、兵庫県宗教連盟にかかわりをもって以来、他宗教の広報誌が私に送られてくるようになりましたが、その中の一つ、「ダーナ」初夏号に、世界で初めて、太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一さんのインタビュー記事が載せられておりました。
  世界一周の航海に出たとき、大きな波がきて180度ヨットがひっくり返ってしまいました。船内に海水が入り込んで、一定の重さに達しますとヨットは沈んでしまいます。ところが幸いにも、船内に半分くらいまで海水が入りこんで来たとき、再び大波がやってきて、ヨットが回転し、元に戻ったのです。もう一つは北極海での出来事です。ヨットが氷に挟まれて、脱出できなくなりました。日に日に寒さが増していく時であったので、下手をすれば氷に閉ざされて脱出できなくなってしまい、それは死を意味します。氷は常に変動ししますから、毎日まいにちその変化を見ておりますと、16日後にぱっと前が空いたのです。その隙を前進して助かったのです。要するに自然には逆らえないと言うことです。航海は変化する自然に100%自分が合わせ、そして目的地到着という目標を遠くに置いて、いま、行うべき単調な作業を、気を抜かずに黙々とやる。そうやって機をうかがいながら、自分の進むべき方向に帆を進めるんです。

神を信じていない私 

 弟子たちは、イエスと共にガリラヤ湖を舟でわたる途中、激しい突風に襲われました。漁師出身のペテロ、ヨハネ、アンデレなどは、その経験を活かして舟をうまく操つり、浸水や転覆を免れることができると思っていたのですが、それが全く通用しないほどの荒れようです。水が次第に舟に入り込み、とうとう沈みそうになりました。一方、イエスは艫の方で、何事もないように、すやすやと眠っています。恐怖心に襲われた弟子たちは、イエスを起こして「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫んだのです。1986年ガリラヤ湖畔で1世紀頃の舟が発見されました。長さ8メーター、幅1.35メーター、深さ1.25メーターで、12名以上の人が乗船できる大きさです。しかし、嵐に十分対応できる舟ではないことがわかります。この物語で問題にされているのは、弟子たちの態度であるといえます。弟子たちは、風や波を恐れるという信仰しか、持ち合わせていなかったのです。
  東北教区元主教、佐藤忠男主教が、横浜教区主教按手式の説教でご自身の体験を披露されました。
  それは、牧師になってから12年も経った頃、私は体調を崩して、町の開業医に診てもらったのですが、その開業医に「あなたは神さまを信じていらっしゃいませんね。あなたには頼るべき神さまがおられるのですから、もっと神さまに頼ったらどうですか。神さまを頼りにしていないということは、神さまを信じていないということでしょう。あなたは自分を信じているだけで、神さまを信じてないのでは」と言われたことがありました。
  牧師に対して何と失礼なことをいう医者だろうと、頭が混乱するほどの怒りを覚えたものでしたが、静かに自分をふりかえって見ますと、指摘されたような私の実態を見いだすことは、それほど難しいことではありませんでした。世のなかの動静に一喜一憂し、善悪二元の渦中で悲憤慷慨(ひふんこうがい)を繰り返していた私には、他を見ることはあっても、自身を見つめることは無かったのです。神に向き合っていると思いながら、実は自分の姿に見とれて破滅したナルシスヘの道を辿っていたのでした。牧師として最も大切な部分がおかしくなっていたわけです。真に見つめねばならなかったものが何であったかを、その医師によって気付かされた次第でした。自尊の誇りに生きるとき、人は向かうべき道を誤るのではないでしょうか。昨日の事のような30数年前の思い出です。
  このままでは教会がおぼれそうです。それでいいのですか!
  今、教会の多くが、将来に対する不安や恐怖心から、悲痛の叫びをあげています。人間の側の合理的・理性的・経験的思考をかなぐり捨てて、自分が離そうとしない「積み荷を海に捨て(使徒言行録27:19)」、イエスにのみ信頼を置くとき、嵐の向こうにある港にたどり着くことができるのです。

年齢相応の信仰を

 6月5日、徳島県鳴門で神戸教区教役者修養会が開催され、管区事務所総主事相澤牧人司祭が「宣教」についてお話をされました。来年初めの、各教会受聖餐者総会に向けて、多くの教会では、宣教のビジョン及び具体的目標について話し合いがもたれておりますが、相澤司祭の講話から、教役者は大きな刺激を受けたと思います。講話のなかで、相澤司祭は教会のボトムアップのために次のように提言されました。
◦ 80歳以上の方は、神さまは本当におられ、私たちを支え、導いてくれているのだと、その人生経験の長さ、深さから語り続けていくということ。
◦ 70歳代の方は、毎主日、教会の礼拝に参加し、礼拝堂に座り、祈る存在感を人々に示し続けていくということ。
◦ 60歳代の方は、若者を黙って支え、慈しみと愛をもって関わっていくこと。
◦ 50歳代の方は、知恵を出し、力をささげ、教会を支えていくこと。
◦ 40歳代の方は、一番動くことができる年代ですから、様々な役割に積極的に関わり、挑戦していくこと。

◦30歳代の方は、目と耳と心を使い、あらゆることを学びつつ実践していくこと。

◦20歳代の方は、支えられる喜びを十分に味わうこと。何故なら、「受けるよりは与える方が幸いである」と言われたイエスの言葉を理解するためだから。
それを知った時、今度は与える方に関心が向いていくはず。

◦10歳代の方は、無条件に教会生活を楽しんでほしい。その姿は魅力的だから。

◦10歳以下の方は、「子どもの声は天使の声」という教会の言い伝えのなかで、無邪気に過ごしてほしい。そこに希望があるから。