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主教からのメッセージ

アンデレ便り5月号:岸辺で待つ主

2016年5月1日

道徳や倫理を基準にして物事を推し量る傾向にある人に突然、神さまが何かをしなさいと命令するとき、どのように反応するのでしょうか。その典型的な人は旧約聖書に登場するヨナと新約聖書における金持ちの青年です。

ヨナと金持ちの青年

 神が「ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」とヨナに命じたとたん、ニネベとは全く逆方向のタルシシュに向けて船に乗り込みます。「ニネベの、堕落した人たちを神はどうして救おうとされるのか理解できない。そんな人たちは放置していればいいのだ。しかも、自分にはやりたいことが一杯あって、そんなことをする余裕もない。」との思いがそこにあったからです。しかし、鯨に食べられて絶体絶命の状態に追い込まれたとき、救いの手を差し伸べた神への恩義を感じたのでしょうか、罪責感の持ち合わせなどあるはずはないとの予断と偏見を抱きつつ、この地に赴き、「神の裁きが間もなくくだされるから、自分たちの罪を率直に認め、悔い改めなさい」とニネベの人たちに警告しました。ところが、王から普通の人びとに至るまで、悔い改めの意思表示として粗布をまとい、断食を始めました。でも、悪行に限りを尽くしながら、警告すると簡単に心から悔い改めてしまうニネベの人たちを、ヨナはどうしても認めることができないのです。
 経済的に何ら問題のない人に神さまが何事かをされようとするとき、どのような反応を示すのでしょうか。目の前の人物が神の子であるという認識はありませんが、卓越した宗教指導者だと思っていたのでしょうか、宗教的にも道徳的にも非の打ちどころのない金持ちの青年(マタイ19章)がイエスのもとにやってきて、「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいでしょうか」と質問をしました。この人をじっと見つめたイエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、それから私に従いなさい」とおっしゃいました。そうは言われても、物質的に恵まれた生活からの決別は、簡単にできるものではありません。男は悲しみながら、イエスから立ち去っていきました。

価値判断の相違

 イエスに従った弟子たちは、イエスと共にあることでバラ色の夢を抱いておりました。超人的な力を発揮して、人びとを癒すイエスは、弟子たちにとって羨望の的でした。ですから、自分たちが何もかも棄てて従ってきたことを誇らしげに思っていたのです。しかし、イエスに対する期待がことごとく裏切られたとき、師を見捨てて逃げ去ってしまいました。そればかりか、怖じ気づいて十字架の死も見届けないどころか、葬ることすらしませんでした。
 日本の教会ではここ30年、何が起こっているのでしょうか。この間、多くの人たちが幼児洗礼を受けてきましたが、日本のキリスト者人口は相変わらず1%以下です。この事実は、社会のなかにあって、自分に降りかかってくる様々な難題と、今まで培ってきたキリスト教信仰がどのように関係しているかの理解が十分でないことを示しています。成人で洗礼を受けた人も同様です。あるプロテスタント教会の統計では、最初は熱心に教会に通うけれども、3年後にはいつの間にか姿を消すとう人がほとんどだという結果が明らかにされました。自分の想定した信仰と、教会のあり方や人間につまずいたからと言わざるを得ません。
 最初は誰でも、人間的な立場に立って、私が見いだしたキリスト教を信じるということです。このような価値判断がなければ、キリスト教徒になることができません。ところが、どのようにしてその価値を計るのでしょうか。それが難しいのです。
 イエスがベタニアに来られたとき、マリアが高価な香油をもってきてそれをイエスの足に塗り、自分の髪の毛で油をぬぐいました。そのとき、イスカリオテのユダは、なぜこの香油を300デナリで売って貧しい人たちに施さなかったのか、と呟きました。外に出れば、パン1きれも食べることの出来ない人たちが沢山存在します。キリストを通して神によって基準化された価値の判断や感じ方が、個々人によって、違ってくるということなのです。財産を貧しい人に施せと、金持ちの青年に言うのなら、香油を売る行為が正当化されるのは当然なのに、イエスは、私の葬りのために最大限のことをしてくれたと、マリアを褒めるのです。

キリストの愛

 イエスの死後、イエスに対する後悔の念や失望感を抱きながら、身も心もぼろぼろの状態で、弟子たちはガリラヤに帰ってきました。ガリラヤとは、家族、親せき、友人がいる場所であり、心の安らぎと癒しがこの場所で可能となると思ったからです。そうはいっても、何を差し置いても生活の糧確保が最重要課題です。4,5年前に行ったように、船を出し、網を降ろしました。ところが、魚が一匹も捕れませんでした。明け方、岸に帰ろうとしますと、一人の男が岸辺に立っており、「船の右側に網を打て」と命じます。そうしますと、おびただしい魚が捕れました。ヨハネがその男をじっと見て、イエスだ、と叫びますと、ペテロは湖に飛び込んでイエスのところにいきました。イエスは岸辺で火を炊いて魚を焼き、パンも用意して弟子たちが岸辺に戻ってくるのを待っていたのです。日没後からずっと岸辺におられたに違いありません。「さあ、来て、朝の食事をしないさい」 ゲッセマネの園で、「イエスを見捨てて逃げてしまった(マタイ26:56)」振る舞いを糾弾することなく、イエスは食事の席に弟子たちを招かれ、懐かしい主と共にある喜びと平和が弟子たちの心に満ちあふれました。あのヨナや金持ちの青年が、自分に対し、あるいは、道徳的に見て、相応しくない行動を取っている人たちを快く迎えることができるのでしょうか。では、私たちは? 自分を高見において、今まで培ってきたあやふやな道徳を振りかざして、他者の弱さや問題点をあげつらい、あたかもその人が人間失格であるかのように吹聴してまわっている人を教会でも多く見かけることは、残念至極です。自分もイエスの食卓に招かれているひとりであることに気づいているのでしょうか。

 「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい。」 イエスの遺言ともいえる言葉ですが、他者を通して、自分にも神の愛が注がれているという発見は、他者の必要のために、何かをしようとする使命への招きとなります。イエスが命じられる愛による絆を、教会において育み、成長させることが、私たちの大切な使命となります。
(4月10日・神戸聖ミカエル教会・復活節第3主日説教抜粋)