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主教からのメッセージ

アンデレ便り12月号:虚心坦懐

2013年12月1日

  八代学院創立50年について思いを馳せるとき、創設者八代斌助主教を抜きにしては語ることができません。
  戦後生まれの子どもたちが成長し、団塊の世代の教育問題が緊急課題となったとき、八代斌助主教は、この世代の人たちの受け皿として学校設立の必要性を痛感されました。「志を同じくする人たちとの熱き協働によって、神の愛を信じ、主キリストを愛し、地上に於いて意義ある働きをなそうとする努力を認めてくださる人たちが、この垂水の山における私たちの働きに心からの声援と援助を賜ることができるならば、これほどの喜びはない。」と訴え、自分の余命の意義の一端をこの働きにおいて現したいと願ったのでした。
  土地は神戸教区が所有していましたが、建物はない、立派な運動場もない、校長初め、教職員も存在しないという、ないないずくしの状態にあっても、主教の呼びかけに沢山の人たちが集まり、1年後の1963年に、生徒200名からなる八代学院高等学校が発足したのでした。多くの人たちの共感を得たのは、主教のなかには野心や慢心、物事への執着がなかったからだと思います。
  八代主教は対談のなかで、創設者がその学校をつくる時、人間的に自分から捨てるものがあったからそれができたと言っております。「大隈候だって総理大臣を務めた人です。その人の一時間は、他の人の1年にも値したでありましょう。財産、地位、時間一切のものを犠牲にし得たのです。新島襄だって棄てるものがあったばかりか、自分の身体をむちでなぐる位の勇気がありましたよ。」 知力や能力、実行力、そして人間的魅力が人の数倍も秀でていた八代主教には、様々な誘惑が待ち受けていたことは間違いありません。一つ間違えば教祖となり得る人物でした。それらを払拭し、自分の思いや願いを無にして事を処さなければならないことを、日々の神への祈りを通して獲得したのです。
  八代高等学校建学の精神とは何でしょうか。第1回入学式式辞のなかで、「校長も、職員一同におきましても、上もなく、下もなく、ここには人間的に恐れるものは何一つありません。ただありますのは、上の人も、下の人も、生徒も『神さまを恐れる』ということ、ここにぴったりと合うことがありまして、それ以外に、何ら人間的な権力も権威ももって おらないということであります。キリスト教の誠の心は、自分を大切にすること、どんな愚かな者にも、どんなつまらないと思われている者にも、一人ひとりに神さまが与えているこの人格というもの、すばらしい独自性が自分に与えられている、だから自分自身を大切にすることが出来るのです。これはまた、他の人に対する尊敬の念となってあらわれま す。」と述べております。これに「驚き・感激」を加えなければなりません。
  50年前、この学校の野球部が甲子園に出場できると確信した人は何人いたでしょうか。 当時の運動場は石ころだらけのひどい状態で、体育の授業は、しばしば、運動場の整地で した。この最悪の状態から出発して、日夜努力した結果、今までに3回、甲子園出場の夢が叶えられました。夢が達成されたとき、驚きと感激が、選手初め、保護者、教職員などに与えられたのです。これは単に野球だけの話ではありません。色々な時と場所でこの感激を多くの生徒が体験することによって、人生に、生き甲斐と希望が与えられます。それらを提供する手助けをするのが、教職員の務めなのです。(八代学院創立50年礼拝説教より)

被爆神父の人間理解

 約20年前、広島で聖書展を開催することが決まり、若輩の私が展示委員長を命ぜられ、早副穣神父とブラジル伝道から帰国した、広島アライアンス教会の大江寛人牧師が委員となりました。真夏の午後、冷房設備など全くない、広島YMCAの一室で最初の会合がもたれました。冒頭、私が今後の段取りについて説明を始めたのですが、2,3分しますと、私の声がとても心地よく聞こえたようで、二人とも睡魔に襲われて、こっくりがはじまり、とうとう、気持ちよさそうに寝てしまいました。授業であれば、学生・生徒を無視して話し続けても何ら問題はありませんが、寝ている二人には、内容を理解していただく必要があります。そう思っても、幸せそうに寝ている人を起こすのもはばかられ、午睡から覚めるまでの約30分、私は困惑しながら、沈黙を守るだけでした。薄目を開けた早副神父は「アッハハー、寝てしまいましたね。」とあっけらかんとしておりました。誠におおらかで、のんびりした時代でしたが、聖書展のおかげで、広島の牧師・神父の親交が一段と深まったことは間違いありません。
  早副神父は広島に赴任する前、東京の神学院院長を務められました。その時の神学生が、晴佐久神父でした。

 僕が、神学校で「荒すさみの時期」というか、闇をくぐっていた時期があって、その時はもう、ミサにも出られないっていうか、引きこもりって感じになってたことがありました。だけど、それを、じ~っと我慢して見守ってるんですね。「もうこんなのだめだ」「そんなことなら辞めろ」って、言わず、むしろ守ってくれるわけですよ。だいぶ経ってから、次第に元気になってきて、階段歩いてたら、後ろから院長の声がしてですね、「おお、ちゃんと歩けるようになったのお」って。振り向いたら、院長がニコニコしてた。「お前はここんところ、ず~っと地面から3センチくらい上を歩いておった」って言うんですよ。確かに「心ここにあらず」っていうか、自分では平静を装っているつもりでも、歩き方に出てたんでしょうね。それを院長はじっと見てるんですよね。ずっと見守っていて、ある日(お、元気になってきたぞ。これならもうだいじょうぶだ)と思って声をかける。・・・・・・ありがたいじゃないですか。部屋に戻って泣きましたよ。
  彼は、私のことを信じてくれたんです。これが彼の秘密です。・・・・・・人間を信じる。それにしても、この信仰、この忍耐はどこから来るのか。
  早副神父は原爆の悲惨さを目の当たりにして、人類の平和を希求する者として信仰の道に入り神父となった被爆者です。「平和説く 被爆司祭や 蝉しぐれ(2013年度広島平和祈願ミサ式文より)」が懐かしく思い出されます。【早副穣神父-11月8日逝去。享年87才】