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主教からのメッセージ

アンデレ便り4月号:キリスト者の働きと聖職の務め

2014年4月1日

 

 3月21日(金)、教区内外より約270名の人たちが神戸聖ミカエル大聖堂に参集し、執事・司祭按手式が挙行され、トルハースト司祭、池澤・杉野両執事の按手を祝福しました。当日の説教者は横浜にある船員宣教団体、MtS横浜のチャプレン、アンドゥリュー・デンジャーフィールド司祭でしたが、今月は説教の抜粋を掲載します。
  今日における聖公会の宣教に対して、私たちがどのように関わるべきなのか、特に洗礼者がなすべき役割の視点から説き明かしていることは、多くの示唆を私たちに与えてくれると思います。

それらは洗礼者全ての役目です

 皆さん、神に呼びかけられることの意味を想像してください。最初は、心のなかで芽生え、それが次第に揺るぎない確信となるように、多くの場合、当初はささやくような声かもしれませんし、その声に従うことに困難を覚えても、それを拒否することはできません。全てを前にして、本日按手される皆さんは、神に仕える人生の道をこれから出発します。
    神に忠実に従う人生航路を想像してください。出発の瞬間から、言い分けはできません。好むと好まざるとにかかわらず、毎日曜日には教会があり、聖餐式において、誠実で信念に満ちた姿勢で、神の言葉を語らなければなりません。毎日、毎週、毎年、これからの人生の全ての日、御言葉は心からにじみ出るものであると共に、あなた自身のものとして受けとめて、それが意味を持ってくるのです。
    主日礼拝のあと、暖かくて愛に満ちた挨拶をできるだけ多くの人にし、彼らの喜びや悲しみ一つひとつに、心から関心を寄せる自分を想像してください。病に倒れた信徒がいれば、その病院に駆けつけ、傍らに寄り添って、この人のために祈り、痛みや希望や心配を分かちあうことを通して、多くを学んでいる自分を想像してください。常に愛し、常に理解し、常に赦すように努力している自分の生き方を想像してください。日々祈り、聖書を読み、御言葉を黙想する生活により、自分の発することばに他者が安らぎと平安を覚えるような人物になる自分を想像してください。他者に献身的に接し、勇気づけることを通して、その姿勢が、神に献げる生き方なのだと、信徒がすぐに認める自分を想像してください。
    これら全ては、聖霊なる神の力を通して、教会によって確認され、認められるのです。しかも、この聖霊は決してあなたから離れることはありませんが、それは、日々、神のための奉仕の業を通して、強みと能力というかたちで与えられるのです。
    私がこれらのことを話すとき、どう思いましたか。それらは、聖職ではなく、洗礼者の勢や在り方を意味しているのです。キリスト者としての生活、私たちが相互の義務を分かち合うことにも通じるのです。地上における、全てのキリスト者の義務と人生なのです。主日での教会の働きや、日々、聖書に親しみ祈り、他者への配慮や宣教というのは、今日から開始されるのではありません。これらはすでに洗礼の時、神によって呼びかけられた人たちの使命となっているのです。  これは私見ではありますが、聖職者としての生き方ではないことについて述べてみたいと思います。

 

一国一城の主としての司祭

 聖職、ことに司祭職につて、長い間、悪しき習慣が、教会にはびこっていました。司祭を、あたかも教会のあるじのようにみなし、平信徒を下層階級のキリスト者のように見なしてきたのです。聖職や信徒の、多くの人たちが、このような姿勢で、教会というものを観てきたのは残念なことです。聖職は偉そうに振る舞い、他人の意見を聞かなくなってしまうのです。  一方、信徒は聖職に期待し、次のようなイメージに捕らわれてしまうのです。青少年に対してすばらしい対応をし、病人には同情心を示し、説教はすばらしく、人の話をよく聞き、いつ何時でも対応可能で、しかもいつでも多忙である聖職者像を期待しているのです。聖職に按手された人たちは特別で、全てのことをまんべんなくこなせるとの、共通の認識を反映しています。しかし、これは本当のことでしょうか。  隣人に対して親切に振る舞い、良き父親、母親であり、良き日曜学校教師でなければ、神に仕えることができないのでしょうか。これからの按手式で明らかにされますが、この三人は、ここに参集している皆様より、優れており、より聖い人物であると信じてはなりません。同時に、この3名だけが、神に呼びかけられた人だと考えるべきではありません。神は、私たち全てを使徒という家族のなかで、それぞれの場に相応しく生きるように呼びかけられております。その人たちのなかで、神は主教、司祭、執事に召されるのです。

 

人に仕える執事、良き羊飼いとしての司祭

 執事は私たちすべての模範です。キリスト者が行う他者への奉仕は、キリストへの奉仕であるとの呼びかけを、執事は自らを超えて示します。執事の生き方を通して、キリスト者一人ひとりが分担しなくてはならない役目について、気付きが与えられるのです。イエスは言いました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:40)」
  司祭は遣わされた人々の中での奉仕者・牧者となるよう、神から召されております。
  本日読まれた福音書にあるように、イエスの生涯、死と復活を通してあらわされた業を司祭は遂行します。キリストは良き羊飼いです。羊のいない羊飼いは意味がないのと同様、司祭の働きは、神の群れのなかにあって初めて、その働きが意味あるものとなります。ほんの僅かな人たちを、神は主教、司祭、執事に叙任されるように呼びかけますが、召された聖職は、他の人より優れたり、劣ったりしているわけではありません。
  キリストの教会に属する全ての人たちに神が与える様々な賜物と職務の一部が、聖職の務めに過ぎないのです。