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主教からのメッセージ

アンデレ便り3月号:虚 像 と 実 像

2015年3月1日

 2月18日(水)から大斎節が開始されました。格言に「大斎を失うものは1年を失う」というのがありますが、この40日間、何の目的もなく、無駄な毎日を過ごしていたら、いつの間にか復活日の朝を迎えてしまった、ということでしょう。

 

先入観で人を判断する愚かさ

  大斎中、社会や教会にあって、自分自身や他者に対しての思いや態度は、果たして正しいものかどうかを振り返る時としたいものです。そのためには、何らかの目的を設定し、具体的な計画が必要であると思います。例えば、今まで以上に祈りの時間を持ちたいと思った場合、祈る中身の明確化が求められます。聖書をもっと読むといった場合、例えば、日課表を基準にするとか、余りなじみのなかった聖書のカ所を通読するなどの計画が必要でしょう。同時に、大斎を終えても、その習慣を持続させることが肝要です。大斎節で、私の唯一の自慢は、今から約30年前の大斎節第一主日の説教で、大斎の目標として、今年は「たばこ」をやめますと宣言したことです。これを機に、禁煙は今日まで続いております。
  イエスは、自分の使命について40日の間、祈りと断食を通して神に問いかけてきました。一方、悪魔はイエスが空腹になったことを絶好の機会として捕らえ、「もしお前が神の子なら、目の前に転がっている石をパンに変えて自分の空腹を満たすことができるはずだ。同時に、飢えに苦しんでいる人たちにパンを与えたら感謝され、あなたこそ本当に神の子であると称賛してくれるに違いない(マタイの理解)」とイエスを唆すのです。
  エデンの園で、「死ぬから、善悪の木の実を食べてはいけない。神さまはそうおっしゃっております」とエバが蛇に答えたとき、「本当に食べたら死ぬのですか。人間が神さまのようになったら、自分の出番がなくなることを恐れているからでしょう」と蛇はささやきました。ヨブの場合、「ヨブが何の利益もないのに神様を拝むわけがない」と神に疑義を唱えます。人間というのは元来貪欲であり、虚栄をはり、人にたいしてねたむ存在であることを前提にして、悪魔はそれらを利用しながら、人を不幸に陥れるのです。
  「あなたが何々ならば」という問いを私たちはいろいろな場面で聞きます。「あなたが主教ならば」「あなたが牧師ならば」「あなたが教会委員ならば」果ては「あなたがクリスチャンならば」などです。そのように言う人たちが描く人物像がすでにあっての発言となります。そして、想定された人物像から外れた場合、不満や怒りがわきあがってくるのです。そのように言われている本人も、自分自身の立場のイメージを自己流に作り上げて、それに相応しい行動を取るように努力することで、人々の安心や称賛を得ようとします。
  さて、愛は地球を救うという大きなスローガンがありますが、ここでいう愛とは何を意味するのでしょうか。一般的にいって、この愛は、他者へのここちよい気持ちや善意、奉仕と同じように見られてしまうのです。しかし、それ自体は本来的な愛ではありません。

偽りの業

 デ・メロ神父は、「幸せの条件」という本の「愛徳という名の仮面」のなかで、自己本位の人間には2つのタイプがあると述べております。第1は、自分の好き勝手にして、自分を満足させるタイプ。第2は、他人を喜ばすことで自分を満足させるタイプです。第1のタイプは分かり易いのですが、第2のタイプはなかなか説明が付きません。自分のしていることは、たいしたことでもないのに、すごく見上げた行為だと、自分で信じてしまうからです。自分は他者に必要とされており、そのために奉仕をしたり他者のために尽くす。それがうれしいと満足しているのです。しかし、このような思いや行為は本当に愛の業といえるのでしょうか。
  マタイ福音書25章で、イエスは逮捕される直前、つぎのようなたとえを話されました。 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」 すると、正しい人たちは、「いつ私はそんなことをしましたか。全然覚えておりません」と王に応えています。この人たちは、自分が他者に対して良い行いをしたことを全く覚えていないし、自分がしたことがそんなに良いことであったのかも分からないのです。良いことをしてあげるという気は全然なかったのです。このように、聖書がいう愛に基づく善行というのは、全く気づきのない行為のなかに潜んでいるのです。
  デ・メロ神父は、第1、第2以外にもう一つのタイプがあり、これが最悪であると言います。やましさを感じたくないために善行をするという、牧師に多く見られるタイプです。ですから、良いことをしたからといって、いっこうに満足感を得ることができないのです。時には不快感さえ覚えてしまいます。例えば、ある信徒が何か相談したいと言ってきます。しかし、その人と話し合うのは気が進まない。そう思っても、牧師であるから、はっきりと断り切れない。相談の最中でも、早く話が終わらないかということだけが気になってしかたがないのです。
  どうして、そのように振る舞ってしまうのでしょうか。自分は悪い牧師さんと思われたくないからなのです。このような思いを抱いておりますから、何事も穏便に済ませようとしたり、自分の間違いや欠点を指摘されないように常に気を配ることに汲々とするのです。この種の人は、無意識のうちに、人を傷つけていることに気がついていないのです。

色眼鏡を外すこと

 愛は、人にたいする新たな気づき、発見から生まれます。私の希望や願望、想像でもって相手を見るのではなく、その人をあるがままの姿で見られるときだけ、真実相手を愛することができるのです。
  では、相手に対して自分が作り上げた観念を、どのように取り払うことができるのでしょうか。そのためにはまず、自分自身を見つめる必要があります。自分の、相手に対する動機、感情、不正直さ、自己追求など、自分の思いがどれだけ不純に基づいているかを、不安、怒り、いらいらなどによって判断できます。そして、これらの感情が解消されるとき、相手や自分を、とても大切な、一個の人間として見ることが可能となります。同時に、愛の本当の姿を知るに至るのです。
  「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません(ガラテヤ5:20ff)。」   (大斎節第一主日説教抜粋)