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主教からのメッセージ

アンデレ便り4月号:金の取り立てに来たのか

2015年4月1日

 神戸教区の歳實神学生が学業を終えることになり、3月13日(金)、ウイリアムス神学館の卒業式に出席しました。3月で大阪教区主教を退職される大西主教は説教で、「牧師の軽はずみな言動によって多くの信徒が傷ついている。対人関係に慎重さを欠いては良い牧会はできない」と卒業生を諭されました。まるで私のことを言っているようでした。
  阪神・淡路大震災から2年後、半壊の神戸聖ヨハネ教会を新築することになりました。受聖餐者総会でおおよその図面を提示し、建築費用が約9千万円であることを発表しました。その時、ある信徒が手を上げ、「建物の規模から推測すると、9千万円では不可能でしょう。少なくとも、1千万円の追加が必要だと思われます。上乗せ分の費用をどのように捻出しますか」と質問されました。私は、「実際に施工コンペをしてみないとわかりませんが、何とかなるでしょう」と、具体性に欠く、あいまいな返答をしました。しかし、コンペの結果は、この方が予測したとおり、約1億円になったのです。
  早速、建築献金が開始されましたが、この信徒は、しばらく主日礼拝に顔を見せませんでしたので、週報などを持参し自宅を訪問しました。丁度、玄関先で植木の手入れをされておりましたが、私の顔を見るなり手を休め、「金の取り立てに来たのか」とどなられました。何を言っているのか皆目検討がつきません。怒りがこみ上げた私は、「そのためにここに来た訳ではありません。なぜ、そんなことを言うのです。失礼な!」 喉まで出かかった言葉を飲み込んで十数秒間、気まずい沈黙が流れました。その後「まあ、中に入りなさい。」とおっしゃってくださいました。
  そこで初めて、総会でのこの方の思いに対して、私のつっけんどんな対応に問題があることを指摘されたのです。私はそれを聞いて初めて、自分の至らなさを知るに至ったのです。家を後にしながら、あの時、じっとこらえて良かった。もし、反論しておれば、この信徒を失うことになった、と神に感謝しました。しばらくして、この方は多額の建築献金を教会に献げてくださいました。
  では、不足の1千万円をどう工面したのでしょうか。その頃、ヘルニアの手術を終えた私は、不安定な腰を労りつつ、リュックサックを背負って米子聖ニコラス教会まで出向き、教会委員の前で教会の事情を説明し、無利子で1千万円を借りることができました。米子の教会の皆さんに感謝!

 自分の命を憎む人

  90いくつで老人ホームで亡くなったお年寄りがおりました。その方が3回、離婚しようと決意したことがあったのです。
  1回目は、お父さんが決めた相手との結婚初夜のことが原因でした。彼女は18歳で何も 知らなかった。相手はもう人生の経験者で、男女の営みが彼女にはたいへんショックだった。それでもういやだと思った。しかし父親は、泣いて帰ってきた彼女に「帰れ」というひとことで終わってしまった。
  2回目は、子どもができて、実家にもどってお産して帰ってきたときに、自分たちの夫婦の部屋に夫が二号さんと生活していた。それでびっくりして家に帰ってしまった。こんな人とは生活できないと思った。姑さんが頭をさげにきたので、またもどった。
  3回目は、子どもたちがそれぞれ結婚して自分たちの道を歩み始めた。夫婦だけが残った。自分の人生はむなしいものだから、何とか新しい道を探したいと思って、近くの教会にいき、夫に内緒で洗礼を受けてしまった。そこまではよかったのですが、夫がそれを知るのです。そしてある夜、お酒を飲んだ夫に「お前は俺という男がいるのに、キリストという男を頼りにするのか」と言われた。女の気持ちもわからないこんな人にこれ以上尽くす義務がないと思って、離婚しようとした。
  神父様には悪いから一言断りをいれようと思って、「神父様、私は離婚します。家を出ます」と言ったら、「離婚させるために洗礼を授けたのではない」と言われてしまった。仕方がないので家にもどり、悶々としていた。ところが、夫が55歳のときに脳溢血で倒れて、下半身麻痺になってしまった。車椅子で、頼りになるのは奥さんだけになってしまった。奥さんはこのご主人のいくところ、どこにでも車椅子でついていかなくてはならなくなってしまった。
  この奥さんは近くの修道院のミサに毎朝あずかっていらしたのですが、ミサの最中に祈り続けたのは「夫の死」であったといいます。早く死んでほしいとそれだけを望んでいたのです。ところがある日、「この最も小さなもの一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:40)」というキリストのことばが心の中に浮かんできて、はっとしました。
  それで考えた。たぶん神さまはこのどうしようもない男性を支えるために私をお使いになったのだろうと。もし他の女性だったら、おそらくだめだったのだろう。私だから耐えられた。だから神さまは私をお使いになった。 (カトリックの森一弘司教の話より)

  「自分の命を愛する人は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ12:25)」という箇所ですが、「自分が生きることを愛する人はこれを失い、この世で生きるのが嫌になった人は永遠の生命を保つ。」と直訳できます。「命」とは、私たちの肉体が一日でも生き延びる、というような意味での命ではなく、それがなければ、本当の自分として生きることができない種類のものです。
  先ほどの女性は、キリストの存在が彼女全体を変えてしまう時まで、50年の年月が必要でした。それまでの彼女は苦しみの連続でした。これがイエスの言われる「自分の命を憎む人」ということに通じると思います。
  心から他者に接することができないという限界性に私たちは苦しみます。その状態がいつ終わるか分からないというなかで、自分のこのような運命を憎むのです。
  キレネのシモンは、たままたそこに居合わせていたというだけで、イエスの代わりに十字架を担がされました。人生の重荷というのは、大抵こんな風に、思いもよらぬかたちで、わけもなく、とても納得できないようなかたちで、私たちにのしかかってくることが多いのですが、神はイエスのためにシモンを必要としたのです。自分の苦しみをイエスの十字架の苦しみとして覚え、それが、すばらしい恵みと変えられるよう、祈りを欠かしてはなりません