日本聖公会 神戸教区ホームページです。このホームページにはキリスト教信仰に関わる情報が集約されています。

主教からのメッセージ

アンデレ便り7月号:養い育てるということ

2015年7月1日

 「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4:27,28)
  日本聖公会ではまもなく、洗礼を受けた者が、同時に、陪餐に与ることが可能となりますが、聖公会における教会の宣教(Mission)の5つの指標のなかの2番目、「教会の門をくぐった人を教育し、洗礼を授け、養育すること」が教会の大切な使命であることを、種のたとえを通して、学んでみましょう。
    

 自然に任せる成長

 注目すべきことは、これを演出するのは、種を蒔く「人」ではない、とされている点です。「人」は種を蒔くが、どうして種がそのような成長を遂げるのか「その人は知らない」のです。同様に、「人」が本当に苦労して育てたから大きくなったともいわれてはいません。蒔かれた種は、種自身の持つ力によって「どんな野菜よりも大きくな(32節)」るのです。ですから、畑を耕し、雑草を抜き、肥料をやり、時には水さえ撒くであろう「人」の働きには一切触れられていないのです。「小さかった種」は、それ自体がもつ成長力と、その成長を促す土の力によって「何よりも大きな野菜」となるのです。成長への期待は人為的なものではなく、神の御旨にかかっているということなのです。
  その昔、僅か3年間ではありましたが、私は高校のチャプレンと聖書科の先生をしておりました。その時の生徒の一人が現在、某教区の主教になっております。6月23日(火)、沖縄慰霊の日礼拝に出席し昼食を食べました。その主教と隣り合わせになったとき、前の席に大韓聖公会大田教区の兪樂濬(ユ・ナクジュン)主教がやってきて、私が当時どのようなチャプレンであったかを某主教に聞くのです。少しは良いことをいってくれると内心期待していたのですが、「チャプレンでありながら、生徒を誘って一緒に遊ぶことを強要する人物でした」など、散々な評価でした。

画一教育の弊害

 「実は、あの人は私の教え子なんですよ。」と学校の先生が言うことを、時々耳にします。教え子とは単に、自分が教えたことのある相手なのですが、もしも、それが、「この人が自分の学校の生徒であったときに、私が適切な教育を施したから、立派な人物となったのです。」というメッセージが暗に込められている場合、「だから、自分は立派な教師なのですよ。」と仄めかしていることになります。キリスト教界においても、今までこれだ け多くの人たちに洗礼を自分は授けたと、謙遜を装いながら表明する牧師も多く存在しま す。このような教育姿勢の先生や牧師が、児童・生徒や信徒の人間形成にどれだけ影響を及ぼすことができるのでしょうか。
  6月28日(日)、主教館から最も近い神戸聖ペテロ教会を訪れました。礼拝後、集会室の本棚を眺めますと、「自分をほめない日本人」という題する、白雲龍さんが書いた本が目にとまりました。白さんは聖ミカエル国際学校出身で、長い間、東京のセント・メリーズ・インターナショナル・スクールに奉職された方ですが、本を上梓していたことは全く知りませんでした。この本を借りて自宅で読んでおりますと、次の文章を読んでなるほどと思いました。
  「日本の学校教育は一般的に一方通行で、1人の先生が何人もの生徒を教えています。これは情報を詰め込むにはふさわしいかもしれませんが、それを活用するという意味では、あまり感心出来ないと思います。・・・・・・学校というところでは、何を教えているかではなく、生徒が何を学んでいるかということが大切なことだと思いますが、日本の学校ではそれが欠落しているような気がします。・・・・・・学校で学んだことから、自ら疑問を持ち追求し、探索し、さらに学んでいくというのが本来の学習ということですし、そこからは自然に生涯学習への道が開けていくと思うのですが、どうもそうはなっていません。そのうえ、優秀な生徒がいると、教師は私が彼(彼女)を教えたと生涯自慢します。本当は、その生徒の家庭内で親が植え付けた価値観、使命観等がその生徒の優秀さに寄与しているのですが。」
  日本の教育は画一的で、児童・生徒を個人としてよりも集団として扱う傾向が強く、また子どもの批判的思考力を養成する芽をつぶす傾向にあるとよく言われます。教えるのが先生、学ぶのは児童・生徒という主従関係が構築され、この関係性を維持できない生徒は疎んじられる可能性があるのです。

神の御手に委ねる

 「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この2人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(1コリント3:5-6)
  パウロはキリスト教信仰の基本を教える人として自分の立場を明確にしております。一方、アポロはどうでしょうか。アポロはアレキサンドリア出身で、雄弁であったということから、ヘレニズムの哲学的教養をもった伝道者であったようで、ヘブライ人の手紙の著者ではないかと推測をする学者もいます。私たちの信仰が様々な困難に耐えながら、成長していくためには、信仰を養ってくれる人が必要です。「アポロは水を注いだ」というのは、アポロは信仰の肉付けをするのに適した人物であったというのが、パウロの評価です。ここには、「植える」とか「注ぐ」という表現はありますが、肝心の種について、パウロは何も言及していません。自然の恵みにより、神さまが種を私たちに与えてくださることをパウロは承知していたのです。そして、多くの実を結ぶことを私たちは期待し、種を植えて水を注ぐのです。このような、牧師・信徒の協働作業が、日曜学校や青少年活動を通して、今、教会に求められているのです