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主教からのメッセージ

アンデレ便り:1月号 終わりと初め

2016年12月28日

                                                          主教 アンデレ 中村 豊
                                                                               
                              終わりと初め

 教区の皆様、明けましておめでとうございます。昨年は教区宣教140周年に関わる様々な行事を盛大に行うことができました。これもひとえに、教区の教役者・信徒だけではなく、聖公会関係学校・園各位のご支援とご協力の賜物と、深く感謝いたします。
 2009年6月から発刊されたアンデレ便りも本号を含めてあと3回で終わりとなります。7年半、毎月発行してまいりましたが、あっという間に2017年を迎えることになりました。

 終わりのこと
 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、・・・、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時・・・、求める時、失う時」とコヘレトの言葉が述べる通り(3:1以下)、神戸教区主教の私にとって定められた時は今年3月までです。
 日本聖公会の70才定年制は1968年に定められ、米国マサチューセッツ教区と米国聖公会婦人会からの献金約2億5千万円が原資となり年金制度も発足し、70才に達した教役者は年金受給資格を得ることができました。ところが、1968年当時の日本人の平均寿命は68才であり、多くの教役者は定年を迎えても10年以内に天に召される確立が高かったのです。事実、神戸教区主教の場合、八代斌助主教が70才、八代欽一主教が67才で天に召されております。司祭であった私の父は57才で逝去しました。このように、当時の平均寿命を勘案しての年金制度でしたが、次第に日本人の寿命が延び、2015年の日本人の平均寿命は男性が80.79歳 、女性が87.05歳です。管区年金委員会では年金制度維持のためのアピールを行い、篤志家からの献金(8億5千万円)によって聖公会年金が現在も維持されているのです。
 かつてシスター髙木は講演のなかで、「お迎えは向こうの方からやってくる」とおっしゃいました。それは死のことを意味しておりますが、生前の場合、お迎えはこちらからやってきます。それは組織における職務の終わりであり、それが次世代に受け継がれて初めて進歩・発展を望むことができるための人間の知恵です。高齢化社会にあっては、退く者にも次の役割が待ち受けています。それはボランティア活動や趣味の世界、あるいは家族の者への介護であったりします。教会の場合どうでしょうか。キリスト者には退任はありませんが、教会での役割については、意識しつつ意図的にそれに相応しい人に譲り、将来を託すことによってでしか教会の発展は望めません。高齢者信徒は存在するだけで、多くの影響を若い信徒に与えるのです。

 初めのこと
 昨年9月から降誕日まで、1主日を除き、日曜日は地方の教会にお邪魔しましたが、その
締めは12月18日(日)の下関聖フランシスコ・ザビエル教会で、奇しくも私はこの教会で
生まれました。聖餐式には、津口元婦人伝道師と鈴木都元伝道師も出席され、食事会では昔話に花を咲かせました。
 私の母は小倉出身で、小倉高女時代に受洗し、婦人伝道師になった神崎姉妹や九州教区の大田俊男司祭夫人も同窓であったように記憶します。小笠原で生まれ福岡育ちの父は、九州教区で聖職を志願しました。聖職となって最初の勤務地は阿蘇聖テモテ教会で、管理牧師は熊本聖三一教会牧師の三浦清一司祭でした。三浦司祭は後に賀川豊彦を慕って神戸にやってきましたが、三浦司祭夫人は石川光子元婦人伝道師(石川啄木の妹)で、神戸聖ミカエル教会信徒となり、母と親交を深めておりました。父は阿蘇から門司聖救主教会に転任し、八代斌助主教が九州教区を管理していた1942年(昭17)、下関の教会に移っておりますが、その理由は定かではありません。
 戦中の門司時代、スパイ行為があるのではないかとの嫌疑がかけられ、度々憲兵が来訪し、その都度厳しい取り調べを受けたと貫望さん(貫主税司祭ご子息)が証言しております。1940年(昭15)、プロテスタント各派に対して文部省は日本基督教団へ合同を推進しましたが、日本聖公会は合同派と非合同派に分かれました。同年の10月、憲兵の取り調べに対して父は「宗教というものは超国家性超社会性があり、如斯1国の国策によって宗教にまで干渉を加えることが甚だ卑劣であり不合理である。このような理由から聖公会は政府方面の圧迫ありたるに係わらず、厳然合同に不参加を闡明したのである。・・・欧州戦争も英国の作戦通り長期戦に入りたる為、独伊側は今後急速度に物資の欠乏に陥るを以て之に堪えかね必ずや近き将来に於いて英国に和平交渉を持ち出すであろうが、其の際之が仲介の労を執るものは米国である。従って、世界は遠からず再び英米を中心とした和平が招来せられ、日本は再び政治、経済、文化等凡有部面に於て英米依存になるが、少なくとも、親英米外交に再転換せざるを得なくなることを確信する。故に軽率にも間違った日本当局の外交方針に影響せられたる今回の合同問題に耳を藉すことなく、将来の外交転換に希望を持ち如何なる迫害にも堪え場合に依っては聖公会に対する教団不認可は勿論、宗教結社としての禁止を受けても現状維持で邁進すべきである。(特高資料による戦時下のキリスト教運動1 285頁)」と述べております。
 父の下関時代に子どもが8人生まれ、我が家は赤貧洗うがごとしの生活を余儀なくされました。牧師に嫁ぎ勘当された母も着た切りスズメであったのです。しばしば、米が底を着くのですが、数日して、お米を買うお金がどこからか湧き出てくるのです。どうしてお金を工面したのかを問いますと、母は天国銀行から借りてきたと言うのです。小学生の私はその言葉を信じて疑いませんでしたが、泣く泣く小倉の実家にいって頭を下げてお金を借りていたのが事実でした。教会には多くの青年が押しかけておりました。英語教師の青年信徒は、日曜日の礼拝後、10円賭けて将棋をしよう、と私に持ちかけてきます。軍配は、ほとんどの場合、私にあがります。よくよく、考えてみますと、私が強かったわけではなく、この人は、わざと負けて、私に小遣いをあげようとしたのです。日本家屋を改造した礼拝堂の縁側に、数ヶ月、今まで会ったこともない中年の女性がひっそりと居候をしていたこともあります。夫婦喧嘩をして家を飛び出し、夜中に、泊まらせてくださいと、教会の戸を叩く信徒の方もおられました。当時は誰もが貧しく、生きることに精一杯だった時代ですが、2名の司祭と2名の婦人伝道師が下関から誕生しました。
 戦中、日本聖公会が政府によって解体の憂き目に遭ったにも拘わらず、法的には何ら効力を有しない任意団体の日本聖公会九州教区を八代主教が管理したことによって、父が下関に異動し、そこで私が生まれ、長い年月を経て、神戸教区主教となった運命のいたずらの背後に神の導きがあったことを感謝しております。