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主教からのメッセージ

アンデレ便り:12月号 想定外のプレゼント

2016年12月2日

                                                        主教 アンデレ 中村 豊

               想定外のプレゼント

 神の子と呼ばれた幼子イエスはベツレヘムの家畜小屋で生を授かりました。ところが、当たり前の話ではありますが、たとえ神の子であっても、馬や牛のように生まれてすぐに自分で立ちあがり歩き回ることはできない、普通の赤ちゃんと同じ状態で生まれたのです。
 幼子イエスには、マリヤやヨセフの保護が当然必要であり、羊飼い、占星術学者からの憐れみなくしては生きてはいけませんでした。100%他者に依存して、私たち全ては生まれたという現実に目覚めるのがクリスマス物語の重要な意味なのです。
 その後、他者、特に母親に依存することなく自立が求められ、私たちのほとんどは、3歳位までの記憶が心の奥にしまわれてしまった現実に気づかない状態で成長します。生まれてからの記憶をずっと持ち続けると、依存体質を払拭することが極めて困難になるからです。その後、誰にも迷惑をかけずに自分で決断し、もてる能力を日々の努力によって開発し、人生を切り開くことが健全な人間の成長であると教育されます。
 依存と自立
 かつてTBSのアナウンサーをしていた小島慶子さんは、幼い頃に繰り返し刷り込まれたメッセージは、人を殺しもするし、生かしもする。その両方を母親から与えられることもある、というのです。慶子さんが幼稚園児の頃のある冬の日に「サンタさんくるかなあと言いますと、母は「今年のプレゼントは何がいいの? 買っておくから」と答えました。小島さんは、薄々、サンタクロースは作り話ではないかと思っていたのですが、さすがに衝撃を受けたそうです。サンタがいないということよりも、自分の母親はよそのうちと違って、サンタがいるって言ってくれるママじゃないということに失望したのでした。自分は傷つきやすく、夢見がちな子どもだと思って大切に扱ってくれる実感が欲しかったのに、買っておくだなんて、これでは話が続けられないじゃないかという不満を抱いたのです。クリスマスごっこという風流を理解しない、母親のがさつさに心底がっかりしてしまったのです。そうはいいましても、プレゼントは欲しいものです。ですから、オルゴールが欲しい、と母親にいったのです。25日の朝、包み紙を開けますと、水森亜土のイラストのついたピンクのオルゴールがでてきました。何も知らずに開けたかった、と無念に思いながら、それでもそのオルゴールが嬉しかった。母も嬉しそうでした。しかし、何かが足りない、サンタが嘘か本当かじゃなく、家族に対して、共感してほしいという思いが強かったのです。私が愛されたいように、私を愛して欲しい。そういう強欲さを慰めて欲しい、と思ったのです。父も母も妹も、同じように共感を欲する人たちで、欲しがりやばかりが集まった時には、一番に無節操に欲しがる者が他の者の取り分を脅かす存在となるのです。

 結婚した慶子さんには、2人の男の子が生まれましたが、母親と同じ轍を踏まずに、サンタの存在については沈黙しており、サンタの存在を小学校4年になっても信じているのです。要するに、サンタクロースは、子どもの御用聞きではないということです。子どもの要求に屈するようなサンタであれば、自分の願望をかなえてくれる存在でしかないのです。
 サンタが子どもたちにあげたいものをもってくるのだから、文句も注文もつけるものではありません。そもそも、人が何も言わない、要求しないのに、ものをくれることなんて滅多にないのです。その機会がクリスマスということになるのです。
 神からのプレゼント
 今までにまったく思っても見なかった、予想もしない赤の他人で、しかも外国人の占星術の学者が東の国から、ヨセフ一家が生活するうえで最も必要なものである、黄金、乳香、もつやくを携えてイエス出産の場所にやってきました。そして、それらをイエスに差し出しました。マリアとヨセフにとって、全く期待もしていないビッグなプレゼントとなったのです。自分が生きることで精一杯の社会にあって、羊飼いや占星術の学者の、幼子のための最上の献げ物は、神さまからのプレゼントであったのです。私たちも、その人自身の欲求を満足させるのではなく、あるいは自分自身の満足のためではなく、その人が真実に必要としているものを携えて、その人のもとに行くように、神は切に望んでおられます。
 どうか、皆様の上に、主イエス誕生の喜びと平和がありますように、お祈り申し上げます。

              大阪教区の皆さま、申し訳ありません
                                                                               
 8年前に大阪教区管理主教を仰せつかりました。当時、大阪教区臨時教区会で主教を選ぶことができず、中部教区の大西修司祭が管区総会で主教に選出されました。大西主教の主教聖別・着座式のときの挨拶で私は、「大西主教が退職されるとき、教区会で是非とも主教を選出することを願っております。それが、大阪教区に大いに寄与することは間違いないと思います。」と言いました。事実、昨年実施された大阪教区主教選挙では、僅か1回の投票で、大阪教区の磯晴久司祭が主教に選ばれました。
 去る11月23日開催の神戸教区臨時教区会では、27回投票しましたが、残念ながら、次期神戸教区主教を選出することができませんでした。他教区のことを偉そうに言いながら、後1回のチャンスは残っていますが、自教区での選出はなりませんでした。これでは、大阪教区の人たちに申し訳が立ちません。
 振り返りますと、八代斌助主教逝去後、中道淑夫主教は管区で、八代欽一主教は教区で、古本純一郎主教は管区で、そして私は教区で選ばれ、この順でいきますと、私の後継者は管区で選出されることになるのでしょうか。しかも、臨時教区会で候補者として推薦されていた神戸教区所属司祭が管区で選ばれているのが大きな特徴です。
 来年3月4日に第2回目の主教選挙が実施されますが、信徒代議員・聖職議員は「愚かと誤り、偏りと高ぶりを除き(祈109頁)」、聖霊の導きに自分を委ねるようにお願いいたします。