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主教からのメッセージ

アンデレ便り4月号:祈りのナガサキ、怒りのヒロシマ、和解のコベントリー

2014年9月1日

8月9日(土)、九州教区長崎原爆犠牲者記念聖餐式に説教者として招かれました。説教
をつくりにあたり、2つの本を参考にしました。一つは秋月辰一郎医師の「死の同心円」、
もう一つは「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」という本です。これらの本を参考
にしながら、前月号に引き続き、戦争に関わる問題を取り上げます。

秋月医師の疑問

「死の同心円」は、ずっと以前に、秋月医師の三女の方からいただいておりましたが、
説教資料とするために再読しました。秋月医師は、キリスト者ではありませんでしたが、
戦中から戦後、カトリック教会が運営する浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)の医長
のときに被爆、自身のからだが次第に蝕まれているなか、原爆症で苦しんでいる人たちを
診察し続けてきました。
秋月医師は、原爆に対する意識が変わったのは1949年5月に天皇が長崎に行幸された時
であるといいます。長崎の人たちは、原爆が縁となって、平和と文化国家建設を唱えられ
る天皇をお迎えできたことを歓喜しました。同時にこの年は、フランシス・ザビエルが日
本に上陸して400年目に当たり、長崎ではこれに併せて、復興への様々な事業が計画され
ました。この2つの出来事が、原爆に対する怒りを天主(神)への祈りに移し替えたので
す。ザビエルの記念行事が終わりますと、長崎では共産党のほかは原子爆弾について何
も言わなくなってしまい、それを語れば反米分子、革命分子であると見なされるようにな
ったのです。原爆について考えることは、すべての宗教家にとっての根本問題であるにも
かかわらず、宗教家も沈黙して、ひたすら祈りを献げるだけになってしまった。この年を
境に「怒りの広島」に対して「祈りの長崎」が強調されるようになった、このように2つ
の被爆都市を位置づけております。
その後、カトリックで洗礼を受けた秋月医師は、永井隆医師の祈るという姿勢にはどう
しても納得できず、長崎原爆の悲惨さと平和を訴えるため、組織のリーダーとして、広島
の日本基督教団流川教会・谷本清牧師などと連携しながら、平和を訴え続けました。

原爆の遺跡が存在しない長崎

広島の原爆は、いわゆるビジネスによってお金をかせぐ、この世の富の象徴ともいうべ
き場所、産業奨励館上空で炸裂しましたが、この会館を遺し、原爆ドームと言う名前がつ
けられました。長崎の原爆は、魂・心の象徴である祈りの場所、浦上天主堂上空で炸裂し
ました。しかし、長崎には原爆を象徴する遺跡が見当たりません。
長崎には、どうして原爆ドームのような、原爆を象徴する建物などが存在しないのか。
その理由が、「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」という本に記されております。
当初、長崎市の原爆資料保存委員会では、浦上天主堂の廃墟を保存すると決めておりま
したし、田川市長もこれに賛成していました。このようななか、降ってわいたように、ア
メリカ・ミネソタ州のセント・ポールという市から長崎に姉妹都市打診がありました。19
55年のことです。海外との姉妹都市提携は、日本ではこれが初めてです。田川市長は、こ
こに招待され大歓迎を受け、その後、アメリカ一周の旅をし、1ヶ月後に戻ってきた時に、
崩壊した天主堂保存について、残す必要はないと言いだしたのです。
その後、12月7日に姉妹都市が締結されました。つまり、日本時間12月8日で、卑劣な真
珠湾奇襲攻撃の日なのです。真珠湾はアメリカにとって原爆投下を正当化する格好の理由
ということになります。
セント・ポール市はカトリック信徒が非常に多い町ということで、同じような都市長崎
との提携は誰も理解しやすい話ですが、この話をもってきたのが国務省であり、姉妹都市
の背後には、アメリカがカトリックの町に原爆を落とし、そこに住んでいたカトリック教
徒多数を殺してしまい、しかも原爆の遺跡が教会では、アメリカにとって悪いイメージを
植え付けるということになるのは明らかです。セント・ポール市は資金援助を申し出まし
たが、国務省も新しい天主堂をつくる資金を提供すると申し出たふしがあり、その代償と
して、浦上天主堂を更地にするという密約があったのではないかと、この本は推測しています。
自分たちにとって都合の悪い歴史的事実の痕跡を残さないようにする、これが国家や民
族の姿勢であることは残念なことです。では、自然災害の場合はどうでしょうか。まもな
く20年になろうとする阪神淡路大震災では、淡路島の野島断層が保存されているだけで、
家屋の遺跡は皆無です。津波によって被災した岩手県大槌町旧役場庁舎の保存を求める署
名運動が起こりましたが、町内の女性は「旧庁舎を見るたびに嫌な思いをする。更地にし
た上で、鎮魂の場所にしたい」と提案しております。「被害者感情だけで判断するのでは
なく、災害の教訓を、後生に広く伝え、次への備えに供するという視点から、保存の歴史
的な意味を粘り強く思考していく(304頁)」ことも必要なのです。

コベントリーの釘の十字架

イギリス北部にコベントリーという町があります。1940年11月14日夜、ドイツ空軍爆撃
隊400機が飛来し、工業地帯に爆弾を投下しました。爆弾は大聖堂を直撃、周りの壁だけ
を残し倒壊しました。戦後、大聖堂再建にあたり、破壊された建物を残して、その隣に聖
ミカエル大聖堂を建設することになりました。新聖堂正面壁には、ユダヤ人彫刻家エプス
タインによる、聖ミカエルが悪魔を撃退している場面(黙示録12章)を掘った彫刻が掲げ
られております。そして、旧大聖堂の梁を支えてきた釘を集めて十字架を造り、それを和
解の象徴として「釘の十字架」と命名し、戦後、連合軍爆撃で破壊されたドイツのベルリ
ン、ドレスデン、キイルに贈呈しました。その後、「釘の十字架共同体・CCN」を設立、
紛争下にある場所で和解を訴えています。かつて、この大聖堂の参事であったウェルビー
・カンタベリー大主教は、いつもこの十字架を胸につけ、和解をアピールしています。