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主教からのメッセージ

アンデレ便り4月号:新たな人生への旅立ち

2016年4月1日

ここ数年、神戸市バス後部ボディーに「家族葬送はお任せください」「安心の直葬パック」などの宣伝が目に付きます。

葬儀費用の節約

 インターネットで検索してみますと、「直葬とは、病院などのご逝去先から、荼毘を行う火葬場へ直接搬送し、通夜や葬儀告別式を行わず、ご火葬のみを行う形式を指します。法律上、ご逝去時刻(死亡診断書に記載)から24時間経過しなければ、荼毘(火葬)を行う事は出来ませんので、実際のご火葬は、翌日以降、役所手続き(死亡届の提出)や、火葬場の空き状況、ご家族のご都合によって日時が決定します。」との説明がありました。
  直葬は、普段の葬式費用に比べると、格段に安上がりであることがわかります。インターネットには「お坊さん便」というのもあって、5万5千円以上でお坊さんを手配してくれるのです。要するに、葬儀費用をいかにして安くあげるかに腐心する遺族の要望に応えるかたちで、この種の葬りが繁盛しているという証左が、これらの宣伝で伺い知ることができます。
  牧師時代、「祖母が亡くなりました。実は、かつて婦人伝道師として働いておりましたから、お葬式は教会で行いたい」という電話がかかってきました。亡くなった方は教会の礼拝に来たことはなく、教役者名簿を調べても該当者は見当たりません。遺族のおっしゃることを信じ、葬送式を教会で行いましたが、その後、音沙汰なしです。教会へ感謝献金をする必要性を理解しつつも、知らんぷりを決め込んでいるのです。再三督促した末、ようやく献金をささげてくれました。
  何故、お葬式を安くあげようとする思いに駆られてしまうのでしょうか。遺産がある場合、葬儀費用をできるだけ節約して、より多くのお金を手に入れようとする遺族の魂胆がそこにあるのでしょうか。教会やボランティア組織など、必要とされるところに献金するために葬儀費用を節約される方もおられます。もしも前者ならば、人の価値を「もの」としか測れない人間の浅ましさがあらわれているといわざるを得ません。しかも、死人に口なしです。

 何事もお金に換算するユダ

 「社会関係のなかに埋め込まれていた経済システムにかわって、今度は社会関係が経済システムのなかに埋め込まれてしまったのである。」    (カール・ボランニー)

 「折々のことば」で、鷲田清一さんは、「実も蓋もない言い方をすれば、あらゆるもの が貨幣価値で測られるようになったということ。何事も利潤を動機として動く人は未熟で あり、『経済的人間』を本来の人間として見る人は哀れなばかりに単純だ。」と、説明しております。
  2000年前、何事もお金に換算してでしか計ることができない、哀れな人物がおりました。その名はイスカリオテのユダです。イエスの価値を銀貨30枚として、ユダヤ教の宗教指導者に売りわたそうとした人物です。マリアは300デナリオンの高価な香油の壺を割って、それをイエスの足に塗り、自分の髪でイエスの足をぬぐい、イエスの葬りの用意をしました。その時、ユダは、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とつぶやきました。300デナリオンは、今の貨幣価値で300万円に相当します。ユダは、「貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた(ヨハネ12:6)」のです。この「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのです(使途言行録1章18節)。」

 

復活の命

 水野源三という方が「我が恵み、汝にたれり」という詩集を(主婦の友出版)からだしていることを土井潔さんの説教集で知りました。

 もしも 私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。もしも 多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は 伝えられなかった。もしも 主なるイエス様が 苦しまなかったら 神様の愛は 現れなかった。

 人間の人生というのは一つの時間の流れのなかにあります。ですから、生きているかぎり、からだを形づくる細胞はだんだんと衰えていって、最後は死んで朽ちていきます。この自然のいのちの流れを逆行させることが復活なのではありません。復活とは新しいいのちに変えられることです。神さまは新しい創造の業をわたしたちを通して行われるのです。
  5年前の3月11日、東日本大震災が発生しました。大震災から2,3日目のテレビを見ておりますと、カメラの画面に、お爺さんが幼い孫と一緒に歩いている姿が写りました。「孫の母親が行方不明なので探しているのです。確か、車を運転していたと思います」。カメラが二人の後を追っていきますと、一人の女性が向こうから足早にやってきて、お爺さんに、「同じナンバーの車が見付かった。」と言いながら、その方角に走っています。その場所は大きな倉庫で、他の車に覆い被さっている車のなかを女性は覗き込んでいます。運転席に人がいたのです。しばらくして救急隊員がやってきました。隊員は運転席の窓をハンマーで打ち破り、女性の生死を確認しましたが、すでに事切れていました。車を発見した女性は、亡くなった人の姉でした。アナウンサーが「大丈夫ですか」と訊きますと、無垢で幼い甥を抱きしめながら、「ほかに守らなくてはならないものが一杯ありますから、私は大丈夫です。」と泣きながらいうのでした。
  自分の甥が大人に成長するまで、自分が代わりになって面倒を見てあげる。その決意がこの女性の言葉にあらわされております。大地震によって、悲しい出来事が沢山起こりましたが、それを踏み越えて、甥と共にある新たな人生を果敢に歩もうとするこの女性の決意に感動しました。
  この姿勢こそ、人との愛の絆に結ばれた生き方であり、復活のイエスと出会った人たちの人生でもあったことを、復活日の朝、覚えたいものです